The Project Gutenberg eBook of 苦悶の欄

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Title: 苦悶の欄

Author: Earl Derr Biggers

Translator: Kiyotoshi Hayashi

Release date: March 28, 2012 [eBook #39287]
Most recently updated: March 3, 2021

Language: Japanese

Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi

*** START OF THE PROJECT GUTENBERG EBOOK 苦悶の欄 ***

Title: 苦悶の欄(Kumon no ran)

Author: Earl Derr Biggers

Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)

Character set encoding: UTF-8

苦悶の欄

アール・デア・ビガーズ

第一章

 二年前の七月、ロンドンの猛暑はほとんど我慢の限界をこえていた。いまから思えば当時の焼けつく大都市は、拷問部屋へつうじる控えの間のごとき役割をはたしていたのかもしれない。つまり世界大戦という地獄のおとずれにむけて不充分ながら下準備をととのえていたわけである。セシル・ホテルのそばにたつ、ドラッグストアのソーダ水売り場には大ぜいのアメリカ人観光客がたむろし、母国で売られているのとおなじソーダやアイスクリームにほっと息をついていた。ピカデリーの喫茶店のあけはなたれた窓からは、イギリス人が涼をもとめて何クォートもの熱いお茶を飲んでいる姿が垣間見られたかもしれない。これは彼らがかたく信じるパラドキシカルな消夏法なのである。

 一九一四年、あの忘れもしない年の七月二十四日、金曜日朝九時頃、ジェフリー・ウエストはアデルフィ・テラスのアパートを出て、朝食を食べにカールトン・ホテルヘむかった。彼は、その堂々たるホテルの朝食室がロンドンでもっともすずしく、さらになんの奇跡か、季節はずれというのにまだイチゴが食べられることを見出したのだ。質実なイギリスの汗を浮かべる質実なイギリス人の顔にとりかこまれて、混雑するストランド街を歩いているとき、彼はニューヨークのワシントンスクエアにある自分の部屋をしきりに恋しく思った。というのもウエストはジェフリーというイギリス風の名前にもかかわらず、生まれ故郷のカンサスとおなじくらい生粋のアメリカ産で、そのときはさしせまった用事のためにイギリスに滞在していただけなのだ。はるかなるがゆえに妖しくもばら色にかがやく祖国から、遠くはなれたイギリスに。

 カールトン・ホテルの新聞売り場でウエストは朝刊を二つ買った。タイムズは勉強用、デーリー・メールは娯楽用である。それからレストランへ入った。ウエストよりもあざやかな金髪の、背の高い、きりりとしたプロイセン人ウエイターが彼を見ると、機械仕掛けみたいなドイツ的笑みを浮かべて一つうなずき、このアメリカ人がまずほしがることを知っているイチゴの皿を取りにいった。ウエストはいつものテーブルにつくとデーリー・メールを開き、お気に入りの欄を探した。そこに載っている最初の記事を読むと彼はうれしそうににっこりと笑った。

 「わたしをいとしい人と申した方は不誠実な方。手紙もくださらないなんて」

 すこしでもイギリスの新聞につうじた人ならウエストがどんな内容に興味をひかれたか、たちどころに理解するだろう。ロンドンに滞在した三週間のあいだ、彼は日ごとデーリー・メールに載る私事広告を、胸をときめかせながら追いつづけたのだ。この一連の個人的メッセージは俗に「苦悶の欄」という名で知られ、長きにわたってイギリスの新聞の名物とされてきた。シャーロック・ホームズが活躍したころはタイムズ紙上でこれが大人気となり、多くの犯罪者がそこになにやら心をそそる奇怪なメッセージを載せては捕まえられた。その後、テレグラフ紙がこの投稿欄をもうけたが、半ペニーで買える大衆紙の登場とともに、庶民はこぞってデーリー・メールに鞍がえした。

 苦悶の欄には悲劇と喜劇が混在している。あやまちを犯した者には許すから帰れという勧告が、望まれぬ求婚者には「父は令状を用意したわ。逃げて、あなた!」という警告が出される。その熱烈さにアベラールとエロイーズも赤面するような愛も、一語十セントであさらさまに披露され、町のみんなの微笑を誘うのである。茶色のダービー・シューズをはいていた紳士から、シェパーズ・ブッシュにて電車を降りた金髪の家庭教師に、情熱をこめて申し上げます、あなたに心を奪われました。お話しする機会を与えてもらえませんか? お答えは本欄まで。三週間のあいだ、ウエストはこの手のものを夢中になって読みつづけた。なによりもよかったのは、これらの伝言がどれもこれもあけっぴろげで無邪気なことだった。最悪の場合、それはたんに世間のならわしをかいくぐろうとする努力でしかなかったが、こういう開放的なところはイギリス人にはあまりにもまれにしか見られぬ傾向で、もっともっと奨励されてしかるべきではないかと彼は感じた。おまけにウエストは謎とロマンスに目がなかった。そしてこの魅惑的な双子はいつもこの投稿欄の上をウロウロしていたのである。

 そういうわけで、イチゴを待っているあいだ、彼は「いとしい人」と呼んでくれた男の誠実さを疑うにいたった若い女性の、文法を無視した激しい憤りににっこりしていたのである。彼はその日の朝の二つ目の記事にうつった。心を完全に征服されし者より。

 「わが愛しき人は眠り給う。豊かな漆黒の髪のご婦人。ビクトリア駅から乗車し、隅の席に。水曜日の夜。手には演目表。お尋ねに答えた紳士、お近づきを望みます。お返事はこの欄へ。……フランスの王」

 ウエストは豊かな漆黒の髪の返事は要注意だと思った。次のメッセージは、いまやほとんど連日、この欄の目玉となっているアイの抒情詩だった。

 「最愛の人よ。大好きなあなたへ優しい愛の祈りを送る。私の願いはただ、今もこれからも、ずっとあなたと一緒にいることだけ。私の目にはあなたほど魅力的な人はいない。あなたの名前は音楽だ。命よりもあなたは大切。私の美しい人、私の誇り、喜び、すべてである恋人よ! 誰を見ても恋敵に見える。あなたのかわいい手を私と思って口づけをしてくれ。あなただけを愛している。永遠にあなたの……アイ」

 アイは気前がいいなとウエストは思った。一語十セントなのに。それはさらに先のほうに載っているけちな愛人のメッセージとはきわだった対照をなしていた。

 「心から愛してる。会いたい。切ない。恋しい」

 しかしこのきわめて個人的な伝言は、愛にまつわるものばかりではない。そこには謎もあった。とりわけ次の水生動物たちの言葉には。

 「ふてぶてしい人魚よ。俺のものではない。鰐がおまえに噛みつくぞ。楽しみだ。……最初の魚」

 そしてなにやら血なまぐさい警告。

 「デュ・ボックス。第一ラウンドで歯をへし折ってやる。終局。忘れられない経験になるぜ」

 この時、ウエストのイチゴが届いた。さすがに苦悶の欄も彼の興味をひきとめることはできなかった。赤いイチゴを食べおわると彼はふたたび読みはじめた。

 「ウオータールー。水曜日十一時五十三分の汽車。タクシーで去りぎわに手を振ったお嬢さん、灰色のコートの男性に興味ある? ……まじめな男」

 もうすこし品のある申し込みもその先に出ていた。

 「グレート・セントラル。九日月曜日の朝グレート・セントラル・ホテルのエレベーター内にいらしたボンネットのご婦人、ご紹介を得る機会を切に所望致します」

 その日の苦悶の欄のお楽しみはそれでおしまいだった。ウエストはまじめな市民にふさわしくタイムズ紙を取り上げ、朝のニュースに目を通した。ダリッジ・カレッジの新学長任命に多くの紙面がさかれていた。あの魅惑的なガブリエル・レイが当事者となった離婚騷動もおなじように注意を引いた。そして重要ではない紙面の片隅に、いかにも重要ではないという感じで、オーストリアがセルビアに対して最後通牒を送ったという記事が押しこまれていた。ウエストはこのつまらないニュースを途中まで読みかけたのだが、突然一大警世紙もその記事もどうでもよいインクの染みと化した。

 一人の女性がカールトン・ホテルの朝食室の入り口に立っていた。

 そう、彼はウィーン発の特電記事にじっくり思いをめぐらせるべきだった。しかしなんとすばらしい女性だろう! 髪はにぶい金色で、目はすみれ色、などといっても説明にはならない。おなじような恵みを受けた女はいくらでもいる。それは彼女の物腰だった。すみれ色の目で大ぜいのボーイ長ときらびやかな支配人たちを見る、その優雅な態度。そしてここカールトンであれ、運命がみちびくほかのどんな場所であれ、変わることのないくつろいだ様子。疑いもなく彼女はこの国の人ではなく、アメリカ合衆国の人間だった。

 彼女はつかつかとレストランの中を歩いてきた。そして彼女の背景の一部として、政治家がよく着る黒服をまとった中年紳士も視野に入ってきた。彼もまたまぎれもなくアメリカ人というレッテルをしょっていた。彼女はますますウエストに近づいて来る。見るとその手にはデーリー・メールがにぎられていた。

 ウエストについているウエイターは、自分が椅子をひいて待っているその席以外は、部屋の中に座るにあたいするテーブルはないということを、それとなく示す天才的な技の持ち主だった。こうして彼は女性とその連れをウエストの席から五フィートとはなれていない場所に誘いこんだ。そして注文控えをさっと取り出し、アメリカの劇に出てくる新聞記者のように立ったまま鉛筆をかまえた。

 「イチゴがおいしゅうございますよ」と彼は愛想よく言った。

 男がどうする? といった目で女性を見た。

 「私はけっこうよ、お父さん」と彼女。「イチゴは大きらい。グレープフルーツをくださいな」

 急いでそばを通りすぎるウエイターをウエストが呼びとめた。彼は大きな声を出し挑戦的な口調で言った。

 「イチゴをもう一皿くれたまえ。今日はいつにもましてうまい」

 一瞬、まるで風景でも見るかのように、あのすみれ色の目が彼の目に何気ない無感情な視線を送った。それからその目の持ち主は、ゆっくりと、手にしたデーリー・メールをひろげた。

 「どんなニュースが出てるかね?」グラスの水を一口グイと飲みながら政治家がたずねた。

 「知らないわ」と女性は顔をあげずに答えた。「ニュースより面白いものを見つけたの。知ってる? イギリスの新聞にはおかしな投稿欄があるのよ。苦悶の欄っていうの。その伝言がすごいの」彼女はテーブルに身を乗り出して、「これ、聞いて。『最愛の人よ。大好きなあなたへ優しい愛の祈りを送る。私の願いはただ、今もこれからも、ずっとあなたと一緒にいることだけ。私の目にはあなたほど魅力的な人はいない』」

 男は落ちつかなげにあたりを見まわした。「やめなさい」彼は頼むように言った。「みっともないじゃないか」

 「みっともないですって!」女性が声をあげた。「あら、わたしはとってもすてきだと思う。気持ちいいくらい開放的で堂々としてるわ。『あなたの名前は音楽だ。命よりもあなたは大切……』」

 「今日はなにを見るのかね」と父親が急いで口をはさんだ。

 「シティに行ってテンプル法学院を見るの。サッカレーが住んでいたところよ。それからオリヴァー・ゴールドスミスが……」

 「よしよし、テンプル法学院と」

 「それからロンドン塔ね。とってもロマンチックなイメージがいっぱい詰まってる。とくにかわいそうな王子たちが殺された血の塔。わくわくしない?」

 「おまえがそう言うならな」

 「お父さんたら! テキサスに帰ってもお父さんが王様とかそんなものに興味を示したなんて言わないわ。約束する。今ちょっと興味を示してくれたらね。さもないと国王ジョージ五世が横を通るとき帽子を取ったって、ひどい噂をばらまいちゃうわよ」

 政治家は笑った。関係のないウエストも思わず一緒ににんまりした。

 ウエイターがグレープフルーツとウエストの注文であるイチゴを持って戻ってきた。女性はウエストにはもう一瞥もくれず、新聞を置いて朝ご飯を食べはじめた。しかしウエストは勇気のかぎりをつくしてちらちらと彼女のほうをのぞき見た。愛国的な誇りを感じながら彼はこう思った。「ヨーロッパに来て六カ月経つが、そこで目にしたいちばん美しいものが祖国から来た人だとは!」

 二十分後、彼がしぶしぶ席を立ったとき、二人の同国人は依然テーブルでその日の予定を話し合っていた。そういう場合の常として、女が段取りを決め、男が同意した。

 彼女のほうを最後に一目見て、ウエストはヘイマーケット街の熱せられた舗道の上に出た。

 彼はゆっくりと自分の部屋へ歩いて帰った。仕事が彼を待っていた。しかし彼は仕事に取りかかるかわりに、書斎のバルコニーに座り、そのアパートを選んだ最大の理由である中庭をみつめたのだった。この都会のど真ん中にささやかな田舎が運びこまれていた。きれいに刈りこまれ、手入れの行き届いた緑の田舎。それはイギリスでもっとも彼に満ち足りた気分を与えるものである。ツタが壁を高くよじ登り、花盛りの花壇のあいだを小径がはしっている。そして窓のむかい側にはめったに開けられることのない、はなはだロマンチックな門。座って下を見ていると、真下にあのカールトン・ホテルの女性が見えるような気がした。彼女は丸太のベンチに座ったかと思えば、彼女の美しさに嫉妬する花の上にかがみこみ、次の瞬間には灼熱のせわしない都会にむかってその扉を開く、門のところに立っているのだった。

 彼女が決して入ることはないその庭に彼女の姿を見ながら、もう二度と会うことはないだろうと惨めに思ったとき、その考えが浮かんだのだった。

 はじめは馬鹿くさい、とんでもないアイデアだと思って頭を振った。上品だがあまりにも濫用された言葉を使えば、彼女は「レディ」であり、彼はすくなくとも建前としては「ジェントルマン」なのである。彼らのような人間はそんな下品なことはしない。こんな誘惑に屈したら、彼女は驚き、怒り、どこかで、いつの日か、ふたたび出会うことがあっても、その千載一遇の好機を生かすことはできないだろう。

 でも、しかし、彼女も苦悶の欄をおもしろがり、しかも「とってもすてき」だと思っている。彼女の目にはロマンスが大好きであることを示す輝きがあった。彼女は人間的で、楽しいことが好きで、なにより心に青春の喜びを持っている。

 馬鹿げている! ウエストは部屋の中に入り、うろうろ歩き回った。そんなことは非常識だ。しかしそれでも……と彼はにやりとしながら考えた……このアイデアには愉快な可能性がいっぱいあるぞ。それを永遠に棄ててしまって、このくだらない仕事に取りかからなければならないなんて、あんまりじゃないか! 永遠に棄ててしまう? ううむ……

 次の日の土曜日の朝、ウエストはカールトン・ホテルで朝食を取らなかった。が、例の女性はそこへ食事にやってきた。彼女と父親が席につくと、父親は「いつものデーリー・メールだな、持っているのは」と言った。

 「もちろんよ!」と彼女は答えた。「これなしでは生きていけないないわ。グレープフルーツをお願い」

 彼女は読みはじめた。まもなくすると頬が紅く染まり、彼女は新聞を置いた。

 「どうかしたかね」とテキサスの政治家が聞いた。

 「今日は」と彼女は厳しい口調で答えた。「大英博物館に行くのよ。延期するのはもうたくさん」

 父親はため息をついた。ありがたいことに彼はデーリー・メールを見せろとは言わなかった。もしもそうしていたら、私事広告欄の上から四分の一ほどいったあたりで激怒していただろう。あるいはもしかすると困惑するだけだったかもしれないが。

 「カールトン・ホテルのレストラン。金曜日の朝九時。失礼ながら、イチゴを二皿食べた男性から、イチゴよりグレープフルーツを好むお嬢さまへ。私たち、共通の友人がいるのでは? それを突き止めるまで夜も眠れません。またお会いしてこの投稿欄を読みながら楽しくお話ししたいと思います」

 イチゴ好きの男性が怖気づいてあの朝カールトン・ホテルにいなかったのは幸いだった! 彼はグレープフルーツをみつめる女性の美しい顔に厳しい断固とした表情が浮かぶのを見て落胆しただろうから。あまりの落胆に、ただちにレストランを出たかもしれない。かくしてやがて女性の顔にいたずらそうな微笑が浮かぶのを、そして彼女がふたたび新聞を取り上げ、その笑みを浮かべたまま最後まで投稿欄を読むのを、見ることはなかっただろう。

第二章

 次の日は日曜日で、デーリー・メールは休刊である。その日はのろのろと足を引きずるように過ぎた。月曜日、ジェフリー・ウエストはとてつもなく早起きをし、通りに出て、お気に入りの新聞を捜した。それを見つけると苦悶の欄……それだけを見た。火曜日も希望をすてずにまた早起きした。しかしそこで希望はついえた。カールトン・ホテルの女性は快く返事をくれなかったのだ。

 失敗というわけか、と彼は思った。すべてを賭して大ばくちに出たが、見事にしくじった。彼女が彼のことを考えるとしても、せいぜい取るに足らぬ道化者、タブロイド紙の回し者と決めつけるくらいのものだ。彼は十分に彼女の侮蔑にあたいした。

 水曜日は遅くまで寝ていた。デーリー・メールを急いでのぞこうとはしなかった。前日の失望があまりにも大きかったのだ。ひげを剃りはじめてからようやくアパートの管理人ウオルタースを呼びだし、朝刊を調達してきてもらった。

 ウオルタースは高価な宝物を抱えて帰ってきた。というのはその日の苦悶の欄を、ウエストは白いシャボンを顔につけたまま、喜びにあふれて読んだからである。

 「イチゴ男さんへ。お返事を決心したのは、ただグレープフルーツの女性が優しい心の持ち主で謎とロマンスが大好きだからです。イチゴ狂いさんには七日のあいだ、毎日一通ずつ手紙を書くことを許します。あなたが面白くて、お友達にふさわしい人であることを証明してちょうだい。その後のことは……様子を見てから。宛先はカールトン・ホテル、セイディ・ヘイト気付M.A.L.まで」

 ウエストは終日足が地につかなかった。が、夕闇の訪れとともに、手紙の問題が彼を悩ませはじめた。自分の未来の幸せがまるごとそれにかかっていると彼は感じた。夕食から帰ってくると、すばらしい中庭を望む、窓ぎわの机にむかった。日中はいまだ焼けるように暑かったが、夜になるとそよ風がロンドンの熱した頬をあおぐように吹いてきた。風はやさしくカーテンをゆすり、机の上の紙をかさかさと鳴らした。

 彼はじっくりと考えた。すぐさま自分が地位のある立派な人間であり、イヤになるくらい著名な人たちと懇意にしていることを打ち明けるべきだろうか。とんでもない! そんなことをしたら、泡がはじけるように、たちまち謎とロマンスが永遠に消えてしまう。グレープフルーツの女性は一切の興味を失い、二度と彼の言うことに耳を貸さないだろう。彼はさらさらゆれるカーテンに厳粛な口調で語りかけた。

 「だめだ。謎とロマンスがぜひとも必要なんだ。しかし、どこに……どこにそんなものが?」

 上の階から軍靴の硬いどしんどしんという音が聞こえてきた。近所付き合いをしている英国インド陸軍第十二騎馬隊のスティーブン・フレイザー=フリーア大尉である。海のむこうの植民地から賜暇帰国中であった。まさにその頭上の部屋からのちほどロマンスと謎が豊かにあふれ出すことになろうとは、その時のジェフリー・ウエストには思いも寄らなかった。なにを話そうと迷っているうちに、ふと霊感が訪れ、彼はカールトン・ホテルの女性に宛てた、七通の手紙のうちの最初の一通を書きあげた。真夜中に投函した手紙は次のようなものだった。

 親愛なるグレープフルーツのお嬢さま。

 あなたはとても優しい方です。また賢くもいらっしゃる。賢いと言うのは、私のぎこちないささやかな個人広告、あそこに書かれていたことをすべて読み取ってくださったからです。あなたはたちどころにその意味するところを理解なさったでしょう。つまり内気な男がおずおずと、ためらいながら、そばを通り過ぎるロマンスの裾をつかもうとしているのだと。どうぞ信じてください。あのメッセージを書いたとき、保守主義という老人が私につきまとっていました。彼ははげしく抵抗しました。彼はもがき苦しみ、悲鳴をあげ、抗議の声をあげながら、郵便ポストまで私を追いかけてきました。しかし私は奴を鞭打ちました。どうだ! とばかりに。私は彼をやっつけたのです。

 青春は一度きりだ、と私は彼に言いました。それを過ぎてからロマンスに合図を送ってもなにになる? すくなくともこの女性なら理解してくれる、私はそう言いました。彼はそれを聞いてあざ笑いました。おろかな白髪頭を振りました。彼のせいで私が不安を感じたことは認めます。しかし今、あなたのおかげで、あなたに対する私の信念が正しかったことが証明されました。感謝の言葉を百万回申し上げます。

 三週間というもの、アメリカへの思いを募らせながら、私はこの巨大で、ぶざまで、冷淡な都市にいました。三週間というもの、苦悶の欄だけが私の気晴らしでした。そこにカールトン・ホテルのレストランのドアを通って、あなたがあらわれたのです。

 自分のことを書かなければなりませんね。分かっています。それでは私の心の中にあるもの……私が持っているあなたの写真のこと……はお話ししないことにします。そんなものはあなたにとってなんの意味もないことでしょうから。きっと幾人ものテキサスの伊達男があなたにおなじことを言ったでしょう、月が頭の上にかがやく晩に、そよ風がやわらかくささやくなか、あの木の枝を……あの木……えっと、あの木の名前は……

 ああ、面白くないなあ。私は知らないんですよ! テキサスに行ったことがありませんからね。これはすぐ直さなければいけない私の悪い癖です。一日中、私は百科辞典でテキサスを調べようと思っていたのです。しかし一日中、私は雲の上にいました。そして雲の上に辞典はないんです。

 今、私は地上に降りて、静かな自分の書斎にいます。目の前にはペンとインクと紙があります。私は自分がお付き合いするにふさわしい人物であることを証明しなければなりません。

 部屋を見れば、そこに住む人のいろいろなことがわかる、と言いますね。ところが、なんということでしょう、アデルフィ・テラスの……何番地かは申しませんが……この落ち着いた部屋は家具つきの転貸用物件なのです。ですから今、私がいるところをご覧になるとすれば、アンソニー・バーソロミューという人が残して行った所持品で私を判断することになるでしょう。それらの上には埃がたくさん積もっています。そんなものでアンソニーも私も判断なさらないでください。むしろ白髪まじりの奥さんと地下室にすんでいる管理人のウオルタースを判断すべきでしょう。ウオルタースはかつては庭師でした。そして私の部屋のバルコニーが見下ろす中庭に、彼の人生のすべてが詰めこまれているのです。彼がそこで時間を過ごしているあいだに、上の方では隅に埃がたまるというわけです。

 こんな様子にはがっかりですか? ではあなたは中庭をご覧になるべきです! そうしたらウオルタースを非難なさったりはしないでしょう。この中庭は我々の身近に残された天国の見本なのですから。生垣とおなじくらいイギリス的で、こぎれいで、美しいのです。ロンドンはそのむこうのどこかにある喧騒です。私たちの中庭と大都市の間には、永遠に閉ざされた魔法の門があります。私がこの部屋を借りることに決めたのは中庭のせいなのです。

 あなたは謎をお好みですから、私がここに来るにいたった一連の奇妙な事情についてお話ししましょう。

 その発端からお話しするには、まずインターラーケンにまで戻らなければなりません。あちらにいらっしゃったことがおありですか。あのユングフラウの高峰を後ろにひかえ、きらきら輝く二つの湖の間に美しく横たわる、静かな小さな町です。とある幸運なホテルの食堂からは、夕食のとき、雪をいただくユングフラウに、灰紫色の残光が燦めくのを見ることができます。それを見れば、あなたもイチゴのことを「大きらい」などとは言わないでしょう。いや、他のどんな言葉も失ってしまうでしょう。

 一ト月前、私はインターラーケンにいました。ある晩、夕食を終えて、大通りをぶらぶら散歩していました。ホテルと店が一つ残らず通りに整列して、すばらしい山を前に気をつけの姿勢で立っていました。私はある店の店先にステッキがまとめて置いてあるのを見つけました。登山用に一本必要でしたので、ひとつ見ておこうと立ち止まりました。すると品定めをはじめたとたん、一人の若いイギリス人が店にあがってきて、やはりステッキを吟味しはじめたのです。

 たくさんある中から一つを選び、店主を探そうと後ろを振りむいたとき、そのイギリス人が話しかけてきました。細身で、とても若いにもかかわらず気品があり、お風呂で身体をぴかぴかにみがいているような様子をしていました。私はそれこそイギリス人がエジプトやインドのような植民地で威勢を張ることを可能にしている大きな要因だと確信しています。エジプト人やインド人はそれほどきちんとお風呂に入りませんからね。

 「やあ、失礼だが、君」と彼は言いました。「その杖はやめたほうがいい。気を悪くしないでくれたまえ。それじゃ山登りには頼りないな。僕が薦めるなら……」

 私は驚いたなんてものではありません。イギリス人を多少ともご存知なら、彼らには、ぎりぎり差し迫った状況でも、他人に話しかける習慣がないことを知っていらっしゃるでしょう。ところがその傲慢な種族の中には、なんと一人だけ私のステッキの選択にいちゃもんをつける人間がいたのです。私は結局、彼が選んだステッキを買うことになりました。そして彼は私のホテルの方向へ一緒に歩き出しました。そのあいだ、彼のお喋りたるや、全然イギリス人らしくないのです。

 私たちは遊園地に立ち寄り、音楽に耳を傾け、酒を一杯やり、子馬の背中に何フランか金を投げてやりました。彼はホテルの玄関先の回廊までついて来てくれました。彼が立ち去る時、私を旧知の間柄のように扱うのには驚きました。彼は次の日の朝、私を訪ねてくると言いました。

 アーチボルド・エンライトというのが彼が教えてくれた名前なのですが、彼はきっと落ちぶれた山師で、のっぴきならない事情から、なんとか金の工面をしなければならず、それでイギリス的な排他的態度を捨てることにしたのだろうと私は決めこみました。そして次の日、金の無心をされるだろうと覚悟していたのです。

 しかし私の予想ははずれました。エンライトは金はたっぷりあるようでした。最初の晩、私は近々ロンドンに行く予定になっていると言ったのですが、話の途中、彼はしばしばそのことを話題にしました。インターラーケンを離れる時が近づくと、彼は私にむかって、イギリスにいる彼の友人に会うようにほのめかしはじめました。これまた聞いたことがない、前例のないことです。

 彼は私がいとまごいを告げたとき、彼の従兄弟、英国インド陸軍第十二騎兵隊スティーブン・フレイザー=フリーア大尉への紹介状を私に手渡したのでした。大尉なら喜んでロンドン滞在中に便宜を図ってくれるよ、ちょうど今、賜暇休暇の最中だろう、そうじゃないとしても君がそこに着く頃には休暇に入っているさ、と言うのです。

 「スティーブンはいい奴だ」とエンライトは言いました。「喜んでいろいろなことを教えてくれる。君、よろしく言っといてくれたまえ」

 もちろん私は手紙を受け取りました。しかしこの一件には大いに頭を悩ませました。いったいアーチーはなぜ、こうも突然、私に強い親近感を抱いたのか。また従兄弟はインドでの二年間の滞在の後、帰国して、さだめし多忙を極めているだろうに、なぜ私に会わせようとするのか。アーチーに執拗に口説かれ、私は紹介状を見せるという約束をしたのですが、それにもかかわらず、私は見せないことにしたのです。それまで多くのイギリス紳士に会いましたが、アーチーは例外としても、彼らはたかが一通の紹介状くらいで放浪の旅をするアメリカ人を温かく迎えてくれるような連中ではないと感じていたのです。

 私はゆっくり旅をつづけながらロンドンに着きました。ここで私は、船で帰国の途につこうとしている友人に出会いました。彼は紹介状を持っていった時の悲しい経験をいくつか話してくれました。紹介状を見せた相手の「おい、こんなもので面倒をかけさせるなよ」という冷たい、うさん臭い目つきとか。みんな思いやりのある人なんだが、よそ者は毛ぎらいする、と彼は言いました。イギリス人の変ることのない習性ですね。もちろんアーチーはこのかぎりではないのですが。

 というわけで、フレイザー=フリーア大尉への紹介状は忘れることにしました。ここロンドンには仕事上の知人と数人のイギリス人の友達がいます。彼らはいつもと変わらぬ、親切で魅力ある人々でした。でも、できるだけ多くの人に会うことは、私にとっても有益です。ですから一週間くらい転々と移動を繰り返したある日の午後、私は大尉に会いに行くことにしたのです。私は自分にこう言い聞かせました。ひょっとするとインドの巨大なかまどの中でちょっとは柔らかくなったんじゃないだろうか。当てがはずれても別に困ることはないんだし、と。

 アデルフィ・テラスのこのアパートに来たのは、そのときが最初でした。アーチーがくれた住所というのがここだったのです。ウオルタースが中に入れてくれ、私は彼からフレイザー=フリーア大尉がまだインドから帰っていないことを教えられました。部屋は準備されていました。こちらでの習慣のようですが、大尉は不在の間も部屋をそのまま取っていたのです。そして、もうすぐこちらに来ることになっていました。たぶん妻が日にちを覚えているでしょう、とウオルタースが言いました。彼は一階の玄関の広間に私を置いて、奥さんのところへ訊きに行きました。

 待っているあいだ、私はぶらぶらと広間の奥へ入って行きました。そして夏を室内へ招き入れるため開け放たれた窓から、私は初めてあの中庭を、ロンドンで私がとても気に入っているあの中庭を見たのです。ツタの這うレンガの古壁、花咲き匂う花壇をめぐるきれいな小径、丸木の椅子、魔法の門。そのすぐ外側に世界最大の都市がその貧困と富、悲しみと喜び、騒音と喧騒とともに横たわっているとは、とても信じられませんでした。こここそはジェーン・オースチンが貴婦人や洗練された紳士を住まわせた庭です。こここそ夢を見、崇め、慈しむべき庭なのです。

 ウオルタースが戻ってきて、奥さんも大尉が戻る日をはっきりとは知らないと言ったとき、私は中庭を口をきわめてほめました。すぐに私たちは友達になりました。私はホテルから離れた静かな下宿を探していたので、二階の、ちょうど大尉の部屋の真下に、転貸用のスイートルームがあることを知ったときは、大喜びしました。

 ウオルタースから不動産業者の住所を聞き、社長の娘に結婚を申し込んだとしても、これほどではあるまいと思える厳しい審査を受けた後、私はここに住むことを許可されました。庭は私のものになったのです!

 大尉ですか? ここに来て三日後、はじめて上の方から軍靴の音が聞こえてきました。するとまた勇気がくじけてきたのです。アーチーの紹介状は机にしまっておいて、隣人とは、上のほうで彼が歩く音を聞くだけの付き合いにしたい。彼とおなじアパートに移ってきたのは、ひょっとすると礼を失した行為ではなかったかと感じました。しかしウオルタースには大尉の知り合いであると言ってありましたので、彼はすぐさま「お友達」が無事お帰りですよ、と教えに来たのでした。

 そういうわけで一週間前のある晩、度胸を決めて大尉の部屋に行ったのです。ノックすると、入るように言われ、私は書斎で彼と対面しました。背の高い金髪の美男子で、口ひげを生やしていました。まさしく、お嬢さん、女学生の頃のあなたが夢見るような人物でした。態度のほうは残念ながら好意的とは言えなかったのですが。

 「大尉」と私は話しはじめました。「無理やり押しかけてきて申し訳ありません」もちろんそんなことを言うつもりはなかったのですが、私は落ち着きを失っていました。「しかし私は、たまたまあなたの隣人でして、それにここにあなたの従兄弟でいらっしゃるアーチボルド・エンライト氏の紹介状も持っています。インターラーケンでお会いして、とても仲のよい友達になったのです」

 「ほう、ほんとうかね」と大尉。

 彼は軍法会議の証拠品を受け取るように、紹介状に手を伸ばしました。私は来なければよかったと思いながら、それを手渡しました。彼は手紙を最後まで読みました。紹介状にしては、長い手紙でした。彼の机のそばに立って待っているあいだ……というのは彼は座れとは言わなかったからなのですが……私は部屋の中を見まわしました。私の書斎と大差ありませんが、ただ私の部屋よりも少し埃っぽいなと思いました。三階にあるので庭からはさらに離れています。それ故ウオルタースはそこまでめったにやって来ないのです。

 大尉はこちらを振り返ると、また手紙を読みはじめました。これは決定的に私を当惑させました。私は下をむきました。すると偶然、彼の机の上に、インドから持ちかえったと思われる奇妙なナイフを見つけたのです。物騒なほど鋭利な刃は鋼鉄製で、柄は金、なにか異教的な模様が彫られていました。

 そのとき大尉はアーチーの手紙から顔をあげ、冷たい視線をまともに私の上にそそぎました。

 「君」と大尉は言いました。「私の知るかぎり、アーチボルド・エンライトなどという従兄弟はいないんだがね」

 ああ、涙が出るほどすてきな成行きではありませんか! 相手のお母さんから紹介状を持ってきたというのも十分間の悪い話ですが、私はこのイギリス人の部屋で、存在しない従兄弟からもらった、あたたかい推薦状とやらを、目の前でずうずうしくもひけらかしてみせたのです!

 「それは失礼いたしました」と私は言いました。彼とおなじように横柄にかまえようとしたのですが、十年早いというところでした。「しかし決してふざけて手紙をお持ちしたのではないのです」

 「もちろんそうでしょうな」と大尉は答えました。

 「どうやらペテン師がなにかを企んでそんなものを私によこしたみたいですね」私はつづけました。「なにを企んでいたのかは皆目見当もつきませんが」

 「まったくもってお気の毒です」と彼は言いました。しかしそれをロンドン的な抑揚をつけて言ったのです。その抑揚がはっきりほのめかしていたのは「ちっともそうは思ってないね」ということでした。

 痛々しい沈黙。大尉は手紙を返すべきだと私は思いましたが、そんなそぶりは見えません。それに、もちろん、わたしも返してくれとは言いませんでした。

 「あの、では、失礼します」と言って私は急いで出て行こうとしました。

 「おやすみなさい」と彼は答え、私はアーチーのいまいましい手紙を手にして立っている大尉のもとを去ったのです。

 私がアデルフィ・テラスに来たのは、以上のようなわけがあったのです。そこに謎が含まれていることは認めて下さいますね。あの気まずい訪問の後、一度か二度、階段で大尉とすれ違いましたが、廊下が非常に暗いのはもっけの幸いでした。上からは彼のたてる物音がしばしば聞こえてきます。実はこれを書いている最中も聞こえているのですよ。

 アーチーとは誰か? なにをもくろんでいたのか?

 とにかく、私は庭を手に入れました。その点はお喋りのアーチーのおかげです。今はほとんど真夜中です。ロンドンのざわめきは次第に静まり、今はぶつぶつという不平のつぶやきになりました。そしてこの焼けつく都市のかなたから、そよ風が吹いてきました。そのささやきが緑の草の上、壁を這うツタのあいだ、カーテンの柔らかく薄暗いひだの中から聞こえてきます。どんなことをささやいているのでしょうか?

 おそらく、この最初の手紙とともにあなたに届ける夢を。それは私でさえ、まだささやく勇気がない夢です。

 それでは、おやすみなさい。

イチゴ男

第三章

 テキサスの政治家の娘は、興味津々の笑みを浮かべて、木曜日の朝、カールトン・ホテルの自室でその手紙を読んだ。イチゴ狂からの手紙が彼女の心をとらえ、ひきつけたことは確かだった。その日一日、無理やり父親をひっぱって美術館めぐりをしながら、彼女は次の日の朝をわくわくしながら熱心に待ち望んでいる自分に気がついた。

 しかし翌朝、この奇妙な文通を取り次いでいる女中のセイディ・へイトは一通も手紙を持ってこなかった。テキサスの娘は少々がっかりした。昼になると彼女はお昼ご飯を食べにホテルに戻ろうと言い張った。父親が言うとおり、そのとき彼らはカールトン・ホテルからずいぶん離れたところにいたのだけれど。彼女の大移動は報われた。第二の手紙が待っていたのだ。読みながら彼女は息を呑んだ。

 親愛なるカールトン・ホテルのお嬢さま。

 私は午前三時にこの手紙を書いています。庭のむこうのロンドンは墓場のように静かです。こんな遅くに手紙に取り掛かるというのは、昨日ずっとあなたのことを考えていなかったということでも、昨夜の七時に机にむかって手紙を書こうとしなかったということでもないのです。信じてください。私を妨害できるとしたら、それはなにかとてつもなく驚くべき、ぞっとするような事件くらいなものです。

 そして、そのとてつもなく驚くべき、ぞっとする事件が起きたのでした。

 このニュースを強烈な恐ろしい一文で一気にあなたにぶつけてみたい。書こうと思えば書けるのですよ。でもそれはあとのためにとっておきましょう。ロンドンの霧のように深い謎につつまれた悲劇がアデルフィ・テラスのこの静かな、小さなアパートに降りかかりました。地下の部屋ではウオルタースの家族が打ちひしがれ、まんじりともせず、黙って座っています。部屋の外の暗い階段からは時折、不吉な使命を帯びた男たちの足音が聞こえてきます……

 いや、やはりいちばんはじめから話さなければなりません。

 昨日の晩はストランド街のシンプソンズで、早めの夕ご飯を食べました。あまりに早かったので、私のほかに客はほとんど誰もいませんでした。あなたへの手紙で頭がいっぱいでしたので、急いで食事を済ませ、部屋に帰りました。鍵を取り出そうとアパート前の通りに立ち、ポケットを探っていたとき、国会議事堂の大時計が七時を打ったことをはっきりと覚えています。大きな鐘の音が平和な大通りに、声高の、親しげな挨拶のように響き渡りました。

 書斎にたどり着くと、わたしはさっそく机にむかって手紙を書きはじめました。頭の上ではフレイザー=フリーア大尉の動き回る音が聞こえました。夕食に出かけるための身支度でも整えているのでしょう。一階下の粗野なアメリカ人が六時というとんでもない時間に夕ご飯を食べたと知ったら、どんなにショックを受けるだろうかとニヤニヤしながら考えていたのですが、そのとき、突然、上の部屋から客らしい人物の荒々しく断固とした声が聞こえたのです。それにつづく大尉の答は落ち着いていて、もっと毅然としていました。この会話はしばらくつづき、ますます興奮したものになっていきました。なにを言っているのか、一語も聞き取れませんでしたが、私は口論がかわされているのじゃないかと不安な気持ちになりました。そしてあなたへの手紙を書くという、私にとって最も大切な仕事を、こんなふうに邪魔されることに不愉快を感じたことを覚えています。

 五分ほど議論がつづいたあげく、今度は上から争うような、どすんどすんという重い音が聞こえてきました。私は大学時代、上の階の血気盛んな連中が若げの至りで取っ組み合いをする音を聞きましたが、それを思い出しました。しかしこれはもっと凄みと緊張感があって、わたしは胸騒ぎがしました。しかし私に関係したことではないのだからと考え直し、気持ちを手紙に集中しようとしたのです。

 争いはこの古アパートを土台から揺るがすような、とてつもなく重いどさっという音とともに終わりました。私は座ったまま、なぜかとても憂鬱な気持ちで聞き耳を立てていました。なにも聞こえませんでした。外はたそがれが長くつづき、完全な闇にはなってはいません。廊下に出ると、倹約家のウオルタースはまだ明かりを灯していませんでした。誰かが階段を忍び足で降りてきました。しかしきしむ音でわかるのです。私は背後のドアの隙間から漏れる一条の光の中を、彼が通りすぎるのを待ちました。その時です、運命がそよ風となって窓から介入してきたのは。ドアはばたんとしまり、大男は暗闇の中、私の脇を一目散に駈け抜けて階段を下りました。彼が大男だと分かったのは、通路が狭く、彼が横を通るとき、私を押しのけなければならなかったからです。彼が声をひそめて毒づくのが聞こえました。

 私は急いで廊下の突き当たりの、通りに面した窓から外を見ました。しかし正面玄関は開きません。誰も出てこなかったのです。一瞬わけがわかりませんでしたが、私はすぐ部屋に戻り、バルコニーへ飛び出しました。薄暗い男の影が裏庭を……私が何度も話したあの庭を……走って行くのが見えました。男は門を開けようともせず、よじ登って越え、路地に消えました。

 私はちょっとのあいだ、考えこみました。確かになんだか変なことが起きた。しかしここで私がしゃしゃり出ていくのはどんなものだろう。紹介状を差し出したときのフレイザー=フリーア大尉の冷たい視線は忘れられません。彼があの陰気な書斎に、彫像のような愛想笑いを浮かべて、身じろぎもせず立っている姿が目に浮かびました。今、ノコノコ入って行っても、こころよく迎えてくれるだろうか。

 結局、私は、どう思われようとかまうものかと、ウオルタースを探しに下へ行くことにしました。彼は奥さんと地下室で夕食を食べていました。私はなにが起きたかを話しました。彼は大尉に面会に来た人など通さなかったと言い、私の心配に対してイギリス流の冷ややかな態度を取ろうとするのでした。しかし私は彼を説きつけて大尉の部屋まで一緒に行ってもらったのです。

 大尉の部屋のドアは開いていました。イギリスでは侵入者は厳しく処罰されることを思い出し、私はウオルタースを先に行かせました。古いシャンデリアのガスの火が弱々しく明滅する部屋の中に、彼は足を踏み入れました。

 「大変ですよ、旦那様!」ウオルタースはこんな場面でもまだ召使いの言葉づかいを忘れないのです。

 さて、とうとうあの一文を書くときです。英国インド陸軍フレイザー=フリーア大尉はその端正なイギリス的な顔に、ほとんどあざ笑うような笑みを浮かべて、床の上で死んでいたのです!

 今、私は大尉が死んでいた部屋とそっくりの自分の部屋で、静かな夜明けを迎えているのですが、あの時の恐怖は今も強烈に残っています。彼はちょうど心臓の上から刺殺されたのでした。最初に私の頭に浮かんだのは、机の上にあった例の奇妙なインドのナイフでした。私は急いで振り返って探そうとしましたが、ナイフはなくなっていました。そして机を見たとき、この埃っぽい部屋の中には指紋が、たくさんの指紋があるに違いないことに気がついたのです。

 部屋の中は、あの闘争の音のわりには、乱れていませんでした。一つ二つおかしなものが目にとまりました。机の上にはボンド・ストリートの花屋から送られて来た箱が置いてありました。ふたは開けられていて、中に白いシナギクがたくさん入っているのが見えました。箱の横にはエメラルドでできたコガネムシ形のネクタイピンがありました。さらに大尉の死体からさほど離れていないところには、それが作られているドイツの都市の名をとった、ホンブルグ帽が転がっていました。

 私はこんな場合は現場を乱さないことが大切だということを思い出し、ウオルタースのほうを振りむきました。彼の顔色は、今、私が字を書いている、この紙のようでした。膝が震えていました。

 「ウオルタース。警察が来るまで、ここはそのままにしておくんだ。スコットランドヤードに連絡するからついておいで」

 「わかりました、旦那様」とウオルタース。

 私たちは一階の玄関の電話口へ行き、私がスコットランドヤードに電話をかけました。警部をすぐむかわせると言われ、私は部屋に戻って待機することにしました。

 待っているときの私の気持ちはご想像いただけるでしょうね。この謎が解けるまでのあいだ、危険はないでしょうが、かなり厄介な面倒に巻きこまれるであろうことが予想されました。ウオルタースは私が最初、大尉の知り合いだといって、ここに来たことを覚えているでしょう。私の感じでは、彼は大尉がインドから帰ってくるや、私たちが親密な間柄じゃないことに気がついたに違いないのです。彼は私がフレイザー=フリーアとおなじところに下宿することを強く望んだと、必ず証言するでしょう。さらにアーチーからの紹介状の一件があります。あれは秘密にしておかなければならない、私はそう確信しました。最後に、大尉の死の前の喧嘩や、庭を通って逃げた男のことで、私の話を裏付けてくれる人は一人もいないのです。

 えらいことになった、と私は思いました。どんなに愚かな警察官でも、私を疑惑の目で見ない者はいないでしょう!

 約二十分後、三人の男がスコットランドヤードからやってきました。そのころには私は落ち着きを失ってひどく神経質になっていました。ウオルタースが彼らを中に入れるのが聞こえました。彼らが階段を上り、上の部屋を歩き回る音も。すぐウオルタースが私のドアをたたき、ブレイ警部が私と話したがっていると言いました。先に立って階段を上っているとき、私がウオルタースに対して感じていたのは、被告の殺人者が、証言一つで彼を死刑にできる証人に対して抱くに違いない感情でした。

 ブレイは活動的な巨漢でした。髪は、多くのイギリス人がそうであるように金髪。動きの一つ一つがその敏腕を物語っていました。私は巻き添えを食っただけの男のように何気ない様子を装いながら……しかし惨めなほど失敗していたと危惧するのですが……二人の男の声が聞え、闘争があり、大きな男が廊下で私のそばをすり抜け、ついで門をよじ登ったことを話しました。相手はなにも言わず聞いていましたが、いちばん最後に、

 「君は大尉と面識があるのかね?」と言いました。

 「面識といえるほどのものではありません」と私。アーチーの手紙のことがしきりに頭に浮かんできて、私はおびえていました。「わたしたちは会ったばかりでした。彼の友達の紹介です。アーチボルド・エンライトという名前なんですが」

 「エンライトはロンドンにいて君の証人になってくれるのかな」

 「残念ですが、できません。インターラーケンで消息を聞いたのが最後ですから」

 「そうか。このアパートの部屋を借りることになったいきさつは?」

 「初めて大尉を訪問したとき、まだインドからお帰りじゃなかったんです。ちょうど下宿を探していましてね。それにここの庭がとても好きになったんです」

 こんな言い方をすると、まるでたあいのない言い訳ですね。警部が小馬鹿にしたような色を浮かべて私を見ても驚きませんでした。でもあの目つきはひどすぎる。

 ブレイは私を無視して部屋の中を歩きはじめました。

 「白いシナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽」と彼は奇妙な陳列物が並ぶ机の前に立ち止まって、一つ一つを列挙しました。

 巡査が新聞を持って進み出てきました。

 「なんだ、それは」ブレイが聞きました。

 「デーリー・メールです、警部」と巡査。「七月二十七、二十八、二十九、そして三十日の分です」

 ブレイは新聞を手に取り眺めていましたが、蔑むようにそれらを屑箱に放り込んでしまいました。そしてウオルタースにむき直りました。

 「大尉の家族に連絡したかね?」

 「すみません、旦那様」とウオルタースが言いました。「めんくらってしまったもんで。こんなことは、初めてなもんで。すぐひとっ走りして……」

 「いや、かまわん」とブレイは鋭く答えました。「気にしなくていい。こっちでやるよ」

 ドアをノックする音が聞こえました。ブレイが「入れ!」と言うと、華奢な感じの、しかし挙動は軍人らしい、ほっそりした青年が入ってきました。

 「やあ、ウオルタース!」と彼はにこにこしながら言いました。「なにかあったのかい? 僕は……」

 彼はフレイザー=フリーアが横たわっている長椅子を見ると突然立ち止まりました。次の瞬間、彼は死者の脇にいました。

 「おい、スティーブン!」彼は悲痛な叫び声をあげました。

 「君は誰だ?」と警部は詰問しましたが、私にはその態度がややぶしつけに思われました。

 「大尉の弟さんでして」とウオルタースが口をはさみました。「英国フュージリア連隊ノーマン・フレイザー=フリーア中尉でして」

 沈黙が訪れました。

 「とんでもないことになってしまいましたよ、旦那様」とウオルタースは青年に話しかけはじめました。

 私は若きフレイザー=フリーアくらい打ちのめされた人間を見たことがありません。彼を見ていると、長椅子の男との間には美しい兄弟愛があったに違いないと思われました。とうとう彼は兄から目をそらしました。ウオルタースはなにが起こったのかを説明しようとしました。

 「失礼いたしました、皆さん」と中尉。「ひどくショックを受けましたので。もちろんこんなことは夢にも……僕は兄……兄とちょっと話をしに立ち寄っただけなんですが。それが今は……」

 私たちはなにも言いませんでした。彼が真のイギリス人らしく、人前で取り乱したことを詫びるがままにしておきました。

 「お気の毒です」視線をなおも部屋のあちこちにさまよわせながら、ブレイ警部はすぐそう言いました。「とりわけイギリスは間もなく、大尉のような方を大いに必要とするでしょうからな。ところで皆さん、私からお話ししておきたいことがあります。私はスコットランドヤード公安課の課長ですが、これは普通の殺人ではありません。今は言えない理由があって……付け加えれば大英帝国の利益のためにも……大尉の悲劇的な死は当分のあいだ、新聞から隠しておかねばなりません。もちろん死亡の状況については伏せるということです。死亡告知を出すだけにしてください、よろしいですか、自然死だと思わせるように」

 「分かりました」と中尉は言いました。彼はその語るところ以上に事情に通じているのです。

 「ありがたい」とブレイ警部。「ご家族への連絡は、あなたにお任せしましょう。ご遺体もお引取りください。他の方ですが、このことを外部に漏らすことは厳禁ですぞ」

 ブレイ警部は立ったまま、おやっという様子で私を見ました。

 「君はアメリカ人かね」と彼は言いました。私は彼がアメリカ人を好まないのだなと思いました。

 「そうです」

 「領事館に知り合いはいるかね?」

 ありがたい、いるぞ! そこにワトソンという次官がいるのです。彼は大学の同期でした。私はブレイに彼のことを言いました。

 「結構」と警部。「君は行ってもよろしい。しかし自分がこの事件の重要な証人であることを理解してくれたまえ。もしロンドンを離れようとすれば、刑務所に監禁だ」

 こうして私は、好きでもない謎にひどくからめとられて、部屋に戻ってきたのです。何度も何度も謎に思いをめぐらしながら、今までしばらく書斎に座っていました。階段からたくさんの足音が、玄関からはたくさんの声が聞こえてきます。

 ここで夜明けを待っているうちに、冷たい端正な顔の大尉がひどく気の毒に思えてきました。やはり彼も人の子だったのだ、もう二度と聞けない、頭上を歩く彼の足音が、そう私に語りかけました。

 この事件にはどういう意味があるのでしょうか。廊下の男、大声で言い争っていたあの男、奇妙なインドのナイフで的確な一撃を与えた男は誰なのか。

 そしてとりわけ白いシナギクはなにを意味するのか。またコガネムシのネクタイピンは? あの妙ちきりんなホンブルグ帽は?

 カールトン・ホテルのお嬢さん、あなたは謎をほしがっていましたね。最初の手紙を出したとき、私はこんなにも早く、奇々怪々な謎をたっぷりと差し上げられるとは夢にも思いませんでした。

 そして……どうか私の言葉を信じてください……この事件が起きているあいだ、ずっとあなたの顔が私の目の前に浮かんでいたのです……あの輝かしい朝、ホテルの朝食室で見たあなたの顔が。私があなたにお付き合いを求めたとき、あなたはその無作法をお許しくださった。私はあなたの目を見たとき、強く、とても強く、心が動くのを感じたのです。

 今、夜明けが庭にも訪れ、ロンドンは動き出そうとしています。というわけで、今回は……おはようございます、お嬢さん。

イチゴ男

第四章

 この手紙が受取人の若い女性をいささかぎょっとさせたことは言うまでもない。その日はロンドンのあまたの名所も、ほとんど彼女の興味をひかなかった。実際、あまりにもつまらないので、汗だくの父親のほうは最愛のテキサスをまぼろしに見はじめるほどであった。そして一度だけ、期待をこめて、帰国を早めるのはどうかと打診したのだが、その提案に対する冷ややかな態度は明らかにそれが間違った期待であったことを示していた。彼はため息をつき、慰めを求めてバーにむかった。

 その晩、テキサスから来た二人はヒズ・マジェスティーズ劇場へ出かけた。バーナード・ショーの新作がかかっていたのである。が、才気あふれるアイルランド人の作者も、うわのそらで台詞を聞いている一人の若くて美しいアメリカ人女性にはいらいらしただろう。そのアメリカ人は次の日の朝を熱心に待ち望みながら真夜中に床についた。

 期待は裏切られなかった。なんの感情もあらわさないイギリス人の女中が、土曜日の朝早く、手紙を手にして枕もとに現れた。それを彼女は鼻を上にむけて手渡した。お手伝いはしますが、感心しませんね、とでも言うように。若い女は急いで封を切った。

 親愛なるテキサスのお嬢さん

 午後遅くこの手紙を書いています。陽があたる庭の芝生に長くて黒い影がのびています。そして世界があまりにも明るくたんたんとしているため、私が過ごしたあの悲劇の一夜が現実にに起きたことなのか、自分でもわからなくなるくらいです。

 新聞を見ると、すべてが夢ではなかったかと思えてきます。一行どころか一語も触れられていないのですから。アメリカのことを考えてください。むこうでこんなことが起きたなら、今ごろ新聞記者がこのアパートじゅうに群れていたでしょう。それを思えば、なおさら驚かざるを得ません。しかし私はイギリスの新聞というものを知っています。あの偉大なジョー・チェンバレンが先日、夜の十時に亡くなりましたが、それを報じた新聞は、ようやく次の日のお昼に出たのでした。特種だ! と大声で叫んで。そりゃたしかに特種なんですけど……。国が違えば流儀も違うと言うわけでしょう。

 ブレイ警部が事件をジャーナリストたちから隠すのは、恐らく難しいことではなかったはずです。そういうわけでイギリスの偉大にしてお粗末な新聞は、アデルフィ・テラスの大事件をなにも知らずに売られているのです。本物のニュースに飢えた新聞は、地平線に見える巨大な戦雲についてそれとなく報じはじめました。よろめくオーストリアがちびのセルビアに宣戦布告し、皇帝が今日ベルリンへ急遽帰還するという、彼になしうる最高の劇的展開があったものですから、だれもかれも全ヨーロッパがまもなく血の海になると思っているのです。炎熱の昼と、寝つかれぬ夜が生んだ悪夢です!

 が、あなたがお聞きになりたいのは、きっとアデルフィ・テラスの事件についてでしょう。謎をさらに計り知れぬほど深める悲劇の続編が起きたのです。しかもそれに気がついたのは私だけ。しかし最初から話をしましょう。

 私は夜明けにあなたへの手紙を投函して帰ってきました。一夜の緊張から、くたくたになっていました。私はベッドに横たわりましたが、寝ることができません。自分の置かれたひどく具合の悪い立場がますます気になってくるのです。ブレイ警部が私を見る眼も、私がこのアパートに下宿するに至った経緯を聞いたときの声も、私は気に入りませんでした。気の毒な大尉を殺した真犯人がつかまるまで、安心はできないと思いました。そこで私はこの事件の数少ない手がかり……シナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽……をたよりに謎を解こうとしはじめたのです。

 その時でした。ブレイが取るに足らずと、何気なくごみ箱に捨てた四部のデーリー・メールを思い出したのは。私は新聞を調べる警部の肩越しに、それが私たちの大好きな部分「苦悶の欄」を上にして折られてあるのを見たのです。たまたま私の机には先週のデーリー・メールがしまってありました。あなたにはその理由がお分かりでしょう。

 私は立ちあがって、新聞を見つけ、読みはじめました。先ほどほのめかした驚くべき発見をしたのはその時です。

 それに気がついてしばらくは、驚きのあまり呆然として、なにをすべきかもすぐには頭に浮かんでこないありさまでした。さんざん考えたあげく、ブレイが午前中に戻ってくるのを待ち、デーリー・メールを無視したのは誤りだ、と指摘してやることしました。

 ブレイは八時ごろやって来て、その数分後、別の男が階段を上ってくるのが聞こえました。私はその時ひげをそっていたのですが、手早くそれを終えると、バスローブを羽織って大尉の部屋へ急ぎました。弟さんが夜中のうちに不運な男の死体を運び出させていました。ブレイと、ほとんど同時にやってきた見知らぬ男のほかには、眠そうな目をした巡査しかいませんでした。

 ブレイの挨拶はあきらかに彼が不機嫌であることを示していました。しかし見知らぬ男……背の高い日焼けした男でしたが……はとても丁寧に自己紹介をしました。彼は故人の親友で、ヒューズ大佐であると言いました。言葉にならない驚きと悲しみを感じつつも、自分にできることがなにかありはしないかと訪ねてきたのだそうです。

 「警部さん」と私は言いました。「昨日の晩、この部屋でデーリー・メールを四部お手になさいましたね。なんの手がかりにもならないとごみ箱に捨てておしまいでしたが、驚くべき事実を説明したいと思いますので、もう一度手に取っていただけないでしょうか」ごみ箱の上に身をかがめるなど沽券にかかわると、この尊大なお役人は巡査にむかってあごをしゃくりました。巡査が新聞を持ってくると、私は一つを選び机に広げました。「七月二十七日の分です」と私は言いました。

 私は苦悶の欄の中ほどを指差しました。お嬢さんも新聞を取っておいででしたらご自分で確かめてください。こんなことが書いてあります。

 「ラングーン。カンタベリーの庭はシナギクが真っ盛りだ。とても美しい。特に白いやつは」

 ブレイはうなり、小さな目を見開きました。私は次の日二十八日の新聞を取り上げました。

 「ラングーン。我々はやむを得ず父のネクタイピンを売らねばならなかった。父がカイロから持ちかえったコガネムシの形をしたエメラルドのやつだ」

 ブレイはわたしの説明にすっかり引きこまれていました。彼は私の方に重くのしかかってきて、鼻息も荒いのです。大いに力を得て、私は二十九日の新聞を彼の目の前に広げました。

 「ラングーン。ホンブルグ帽は川の中に吹き飛ばされ、二度と見つからない」

 「そして最後に」と私は警部に言いました。「七月三十日の最後のメッセージです。フレイザー=フリーアが殺される十二時間ほど前に、通りで売られていました。ご覧ください」

 「ラングーン。今晩十時。リージェント通り。……Y.O.G.」

 ブレイは黙っていました。

 「警部もご存知でしょうが、フレイザー=フリーア大尉は過去二年間ラングーンに駐在していたのです」

 それでも彼は黙ったままでした。ただ私が大嫌いになりつつある、あの狐のような小さい目で私をみつめるだけでした。とうとう彼は険しい声で言いました。

 「どうやってこのメッセージを見つけたのだ」と彼は詰問するのです。「昨日の晩、私が出て行った後、この部屋に入ったわけじゃないだろうな?」彼は怒って巡査のほうを振りむきました。「命令したはずだ……」

 「違いますよ」私は口をはさみました。「私はこの部屋に入りませんでした。たまたま私の部屋にはデーリー・メールが整理されてあったのです。で、まったく偶然に……」

 私は自分がへまをしたことに気がつきました。これらのメッセージの発見談はあまりにもうまくできすぎています。またもや私のほうに疑いを招き寄せてしまいました。

 「いや、ありがとう」とブレイ。「これは覚えておくよ」

 「領事館の私の友人には連絡なさいましたか」と私は聞きました。

 「確認した。以上だ。お引取り願おうか」

 私は出て行きました。

 部屋に戻って二十分ほどすると、ノックの音がしました。そしてヒューズ大佐が入ってきたのです。彼は四十代前半とおぼしきにこやかな人物で、イギリス以外のどこかで日に焼けてきたのでしょう。こめかみのあたりには白髪がありました。

 「いやはや、なんともひどい事件ですな」と彼は前口上抜きで話しはじめました。

 「まったくです」と私は答えました。「どうぞお座りください」

 「ありがとう」彼は座るとためらうことなく私の目を覗きこみ、「警察官というのは」と意味ありげに付け加えました。「非常に疑い深い連中でね。理由もないのに疑いをかけることがしばしばあります。こんな事件に巻きこまれて、ご同情申し上げますよ。というのも、あなたは正直な方とお見受けいたしましたから。失礼ですが、味方が必要なのであれば、わたしが力になりましょう」

 私は胸を打たれました。そしてできるかぎり丁寧に感謝しました。彼の口調はとても同情的で親切で、しかもとりわけ誠実だったものですから、私は思わず彼にすべてを話してしまいました。アーチーと紹介状のこと、庭に魅了されたこと、アーチーという従兄弟など聞いたこともないという、大尉によってあかされた驚くべき事実、それに引きつづく私の面白くない立場。彼は椅子にもたれて目を閉じました。

 「思うに、封をしていない紹介状を持っていれば、誰でも中を開けてどんなふうに自分のことを褒めちぎっているのか見たくなる。それが人情と言うものでしょう。私もちょいちょいそんなことをしました。ひとつずうずうしくお聞きしたいのですが……」

 「いえ、そのとおりです」と私。「封をしてなかったので、私は中味を読んでしまいました。紹介状にしてはちょっと長いなという印象でした。褒め言葉もたくさんありました。エンライトとの短い付き合いを考えれば私を高く買いすぎているような感じでした。それから彼は自分がインターラーケンにどのぐらいいたかとか、八月一日頃にはロンドンに行く予定だとかも書いていました」

 「八月一日か」と大佐は繰り返しました。「明日ですね。さて、ご面倒でなければ、昨晩いったいなにがあったのか、話していただけませんか?」

 私はふたたびあの悲劇の夜の出来事をざっと振り返りました。口論、廊下で会った大男、そして彼がまれにしか使われない門を乗り越えて逃走したこと。

 「ねえ、君」ヒューズ大佐は帰ろうと立ち上がりながら言いました。「この悲劇の糸は遠くまで伸びています。あるものはインドへ、あるものは、名前は言えないが、別の国へとね。正直に言えば、私はこの事件に、大尉の友人として以上の関心を持っています。しかし、しばらくのあいだ、このことは私たちだけの秘密にしておいてください。警察は善意ではあるけど、ときどき馬鹿な間違いをします。あなたはたしか、あの妙な伝言の載っているデーリー・メールをお持ちだと言いましたな」

 「この机の中です」私は新聞を取り出して彼に渡しました。

 「よろしければ、持っていきたいのですが」と彼は言いました。「私があなたを訪ねたことは、もちろん口外してはいけません。また会いましょう。さようなら」

 そして彼は去って行きました。ラングーンへの奇怪な暗号を載せた新聞とともに。

 彼の訪問はなぜかすばらしく私を元気づけました。昨日の晩の七時以来、私ははじめて、再び自由に息をしはじめたのです。

 さて、謎が好きなお嬢さん、以上が一九一四年七月末日の午後における事件の模様です。

 私は今晩この手紙を送ります。これは三番目の手紙で、最初の手紙が運んだ夢よりも三倍も大きな夢を運んで行きます。というのはその夢は月が庭を照らす夜だけでなく、明るい日の光の中でも育つからです。

 ああ、私の心は今とても朗らかです。そういえば昨日の晩、シンプソンズで食事をして以来、ウオルタースが震える手でくれた一杯のコーヒーをのぞいてなにも食べていません。これから食事に行かなければ。まずグレープフルーツを食べるつもりです。私は急にグレープフルーツが好きになってしまったんです。

 こんな言い方は月並みですが……私たちは共通の趣味が多いですね!

もとイチゴ男

 「苦悶の欄」の文通相手から来た三番目の手紙は、二番目の手紙がカールトン・ホテルの若くて美しい女性の心に与えた興奮と緊張をさらに高めた。それを受け取った土曜日の朝、長いこと彼女は部屋の中でアデルフィ・テラスの謎を解こうと頭をひねった。英国インド陸軍フレイザー=フリーア大尉が心臓をナイフで刺され死んだことを初めて聞いたとき、その知らせは古い親友を失ったときのような衝撃を彼女に与えた。彼女は熱烈に殺人犯人の逮捕を望み、白いシナギク、コガネムシのネクタイピン、そしてホンブルグ帽から推理しうることを執拗に探った。

 彼女が犯人逮捕をこのように熱心に願ったのは恐らく、今だに名前も知らない、もちろん話したこともない、この快活な若い友達が事件に巻きこまれ危険にさらされていたからだろう。ジェフリー・ウエストについて知りえたこと、つまりレストランでの何気ない一瞥と、そしてなによりも手紙を通して、彼女は彼をこの上なく好きになりつつあった。

 そこへ例の帽子とネクタイピンとシナギクが、そもそも彼らの出会いを作ったデーリー・メールのあの欄と関係していることを告げる三番目の手紙が来た。たまたまその週の最初の四日分の新聞が彼女の手元にもあった。彼女は自分の居室に行って、新聞を引っ張り出し、はっと息を呑んだ。月曜日の新聞の私事広告欄からじろりと彼女を見上げたのは、カンタベリーの庭のシナギクに関するラングーンへの暗号ではないか。他の三つの新聞にもイチゴ男が引用したのとおなじメッセージが載っていた。彼女は座ったまま、一瞬、考えこんだ。いや、実際は、朝食を一緒に食べに行こうと一階のロビーで一時間も待たされ、腹を減らしてかんかんになった父親のノックの音が聞こえるまで座っていたのである。

 「なにをしてる! 行こう!」部屋に入ってきた父親の声が響き渡った。「午前中ずっとここに座っている気か。お前の腹は空いてないかもしれないが、わしはぺこぺこなんだ」

 彼女は即座に詫びを言い、いっしょに下へ降りる準備をした。その日の行動計画を立てながら、彼女はアデルフィ・テラスのことは一切考えまいと固く決心した。彼女がどの程度それに成功したかは、その晩の夕食前の父親の言葉を聞けば分かるかもしれない。

 「マリアン、口がきけなくなったか? 新しく選任された役人みたいに打ち解けないな。我々の遠征をもう少し活気づけてくれないなら、荷物をまとめて帰国するぞ」

 彼女はにっこり笑って父親の肩をたたき、これから気をつけることを約束した。しかし父親は憂鬱そうであった。

 「いずれにせよ、帰るべきだと思うんだがね」と彼はつづけた。「わしの見るところ、この戦争は燎原の火さながらに広がるだろう。皇帝は昨日ベルリンに戻った。動員令に署名することは確実だ。この一週間というもの、ベルリンの証券取引所ではカナディアン・パシフィックの株が下がりつづけておる。これはイギリスの参戦が予想されるということだ」

 彼は陰鬱に未来をみつめた。アメリカの政治家にしてはヨーロッパの政局に対し並外れた理解を持っているように見えるかもしれないが、なんのことはない、彼は先ほど、カールトン・ホテルの靴磨きと話をしていたのである。

 「うむ」彼は急に決心して言った。「わしは月曜日の朝一番に汽船会社の事務所に行ってくる」

第五章

 娘はその言葉を聞いて落胆した。あれほど彼女を夢中にさせた謎の解決を永遠に手に入れることなく、リヴァプールかサウサンプトンから船出する、はなはだ不幸な自分の姿を思い描いた。彼女は抜け目なく父親の心を食べ物のほうにそらそうとした。食事をするならストランド街のシンプソンズがどこよりもおいしいんですって。歩いて行ってみない? 彼女は、ちょっと遠回りしてアデルフィ・テラスを通って行こうと言った。彼女は以前からアデルフィ・テラスを見たかったようであった。

 静かなストランド街を通るとき、家々のいかめしくて近づきがたい門構えと、その後ろの素敵な庭を念入りに調べながら、彼女は奇怪な謎のありかを探そうとした。しかしどの家も皆よく似ているのである。そのうちの一軒の前にタクシーが止まっているのを彼女は見た。

 夕食のあと、父親は「お茶のカップばかり出てくる気取ったイギリスの劇」を見るよりミュージックホールに行こうと熱心に訴えた。彼の勝ちであった。その夜遅く、彼らがカールトン・ホテルへ帰るとき、街頭で号外が配られていた。ドイツが戦時体制に入った!

 テキサスの娘は、明日の朝はどんな手紙が自分を驚かしてくれるだろうと思いつつ、床についた。次の日、こんな手紙が届いた。

 親愛なる上院議員の娘さんへ

 それとも下院ですか? どちらかはっきり分かりませんでした。しかしテキサスのおうちにいらっしゃらないときや、娘さんの目を通してヨーロッパをご覧になっていないときは、きっといずれかの立派な組織の議員をなさっているのでしょう。それぐらいのことは一目で分かりました。

 しかしワシントンはロンドンから遠く離れています。そして私たちの最大の関心事はロンドンなのです。もっともお父さんの選挙区民にそんなことを知らせてはいけませんが。いったん旅行者気分が抜ければロンドンは実にすばらしい驚くべき都市です。私は今、七歳のときにこの都市にほれこんでしまったという新聞記者が書いた、それは魅力的なエッセイを読んでいます。七歳というのは彼にとって光り輝く都市のすべてがハイストリートの角のフィッシュ・アンド・チップスに象徴されるような年頃です。私は彼と連れ立って真夜中、秘密めいた灰色の大通りを歩きました。時にはゴミ箱にぶつかり、時にはロマンスにぶつかりながら。いつかあなたにそんなロンドンをご紹介したい。もちろんゴミ箱からあなたをお守りしますよ、あなたがゴミ箱から守ってあげる必要のある人なら。でも、考えてみたら、あなたはそんなボンヤリさんじゃありませんよね。

 あなたが聞きたいのはアデルフィ・テラスのこと、今は亡き英国インド陸軍大尉のことだということは分かっています。昨日は、デーリー・メールであのメッセージを発見し、ヒューズ大佐の訪問を受けたあと、何事もなく過ぎて行きました。晩はあなたへの三通目の手紙を出して、しばらくこの都会のぎらぎらした光と薄暗闇を交互に通りすぎながら、歩いて部屋に帰りました。そして六百万の家々に住む人々が暑さにうだっているなか、私はバルコニーで煙草をくゆらせたのでした。

 なにも起きませんでした。私は少々がっかりし、少々だまされたような気がしました。何日も立てつづけにどきどきするような劇を見たあと、初めて晩を家で過ごしたときに感じる、だまされたような気分です。今日、八月の第一日がはじまったのに、なにもかもがなりをひそめたように静かでした。実は、フレイザー=フリーア大尉の突然の死が、さらなる展開をとげて私を動揺させたのは、今日の夕方になってからでした。それはまことに奇怪きわまる展開で、早速そのお話をしようと思います。

 私は今晩、ソーホーの小さなレストランで食事をしました。私についていたウエイターはイタリア人だったので、私は愚かしくも得意げに「十課で覚えるイタリア語」を使って話しかけ、面白がっていました。私たちは彼が住んでいたフィエゾレの町について話をしました。かつて私は月明かりのなか、フィエゾレから丘を下ってフローレンスまで旅したことがあります。バラの花が鮮やかに咲き誇る、どこまでもつづく壁は忘れられません。そしてさびしい女子修道院と門をガチャンと閉める二人の灰色の長服を着た尼僧。また、軍隊の夜営地からさすサーチライトがアルノー川と家々の屋根をしきりに飛び跳ねる様子も覚えています。それは、ここヨーロッパでは、閉じることのない軍神マルスの目のようでした。そして花々が絶えず上のほうからこっくりこっくり首をたれ、ときどきかがみこんでは私の顔をかすめるのです。私はこの先に待っているのは二流ホテルではなく、天国じゃないかと思うようになりました。今だってあんな旅ができるんじゃないかと思いますよ。いつの日か、いつの日か……。

 私はソーホーで食事をし、暑い湯気の立つ八月のたそがれ時に、アデルフィ・テラスに戻りました。私を巻きこんだ謎は一応、動きを止めたように思われました。アパートの前に客待ちのタクシーが停まっていましたが、別にどうとも思わず、私は暗い廊下に足を踏み入れ、のぼりなれた階段をのぼりました。

 部屋のドアが開いていました。書斎は暗く、ただ外からロンドンの街の灯が射しこんでいるだけです。入り口を入ると、かすかに甘いライラックの匂いがしました。庭にはライラックの花はなく、あったとしても、今はその季節ではありません。いえ、この匂いは女性によって持ちこまれたのです……机の前に座り、私が入ると同時に頭をあげた女性によって。

 「勝手に入ってごめんなさい」彼女は英語を本で覚えた人に特有の、正確で完璧な言葉づかいをしました。「少しお話があるのです。すぐ帰りますから」

 私はなにを言っていいのか分かりませんでした。ただ小学生のように口を開けて突っ立っていました。

 「私はご忠告を申しあげたいのです。忠告する人って好かれるとはかぎりませんわね。それでもあなたなら聞いてくれると思いますの」

 その時やっと口がきけるようになりました。

 「聞いていますとも」と私は間抜けのように言いました。「でも、まず明かりを」そしてマントルピースの上のマッチに手を伸ばしました。

 女はすばやく立ち上がり、私とむかい合いました。彼女はベールをかけていました。厚手のベールではなく、ふわふわしたあだめいたものでしたが、しかし顔を隠すには十分でした。

 「お願いですから」と彼女は大きな声で言いました。「明かりはつけないで」私がぐずぐず返事をしないでいると、口を尖らせるような調子でこう付け加えました。「大したお願いではないでしょう。どうかお断りにはならないで」

 私は明かりをつけると言い張るべきだったと思います。しかし彼女の声はチャーミングで、物腰は非の打ち所がなく、ライラックの匂いはずっと昔の我が家の庭を思い出させました。

 「分かりました」と私は言いました。

 「よかった。感謝しますわ」と彼女は答えました。彼女の口調が変りました。「この前の木曜日の晩、七時少し過ぎに、あなたは上の部屋から争う音を聞いたのですね。警察に証言したのはそういう内容でしたわね」

 「そうですよ」と私。

 「時間は間違いありませんか」私は彼女が笑っているような気がしました。「もっと遅かったとか、早かったのではありませんか」

 「七時すこし過ぎに間違いないです」と私は答えました。「なぜかと言うと、ちょうど夕食から帰ってきて、鍵を開けているときに国会議事堂のビッグベンが……」

 彼女は押しとどめるように手を挙げました。

 「どうでもいいことです」と彼女は言いました。その声には鉄のような響きがありました。「あなたはもうはっきりとは覚えていないのです。考え直してみたら、争う音を聞いたのは六時半より前だったかもしれない。そう結論するようになったのです」

 「ほう?」と私は言いました。嫌味をこめて言ってやろうとしたのですが、私はすでに彼女の調子に気を呑まれていました。

 「ええ、そういうことなんです!」と彼女。「ブレイ警部に今度会ったら、そう言うのです。『六時半だったかもしれない』そう言うのです。『もう一度考え直したら、はっきりしなくなった』と」

 「いくらすてきな女性に頼まれても、こんな重要な事柄に関して事実を捻じ曲げることはできません。あれは七時過ぎ……」

 「私は女性のためになにかをしてほしいと言っているのではありません」と彼女は答えました。「あなたのために、そうしてほしいと言っているのです。お断りになればあなたにとってとても困ることが起きるかもしれませんよ」 

 「なんの話なのか、さっぱり……」

 彼女は一瞬、黙りこみ、そしてむき直りました。私は彼女がベール越しに私をみつめているのを感じました。

 「アーチボルド・エンライトとは誰ですか」と、彼女は言いました。私は愕然としてしまいました。彼女が手にしている武器がなにか分かったのです。「警察は」と彼女はつづけます。「あなたが大尉のところへ持って行った紹介状が、フレイザー=フリーアを親愛なる従兄弟と呼ぶ男によって署名されていたことも、それが大尉の家族のまったく知らない人であったことも、まだ知りません。しかし、いったんその情報がスコットランドヤードに届けば、あなたが逮捕を逃れる見こみは、まずありませんよ。警察はあなたと事件を結びつけることはできないかもしれない。でも、あなたはとても厄介な立場に追いこまれるでしょう。個人の自由って大切にすべきじゃありません? それに事件に決着がつく前に、広く世間の注目を浴びてしまいます……」

 「それで?」

 「それであなたは争いを聞いた時間に関して記憶違いをするのです。考え直してみると、あれは七時じゃなくて六時半だったかもしれないと。さもないと……」

 「さもないと?」

 「さもないと、大尉に渡した紹介状が、匿名でブレイ警部の元に送られるでしょう」

 「手紙を持っているのか!」と私は叫びました。

 「私は持っていません」彼女は答えた。「でも手紙はブレイに送られます。あなたは嘘をついていたことがばれるでしょう。そうなったら逃げられませんよ!」

 私はとても不安になりました。疑惑の網の中に追いこまれてしまったような気分でした。しかし私はこの女の自信に満ちた声に憤慨してもいました。

 「それでも証言を変えることは拒否します。真実は真実ですから……」

 女はすでにドアのほうに移動していました。彼女は振り返りました。

 「あしたは」彼女が答えました。「ブレイ警部に会えそうですね。先ほど言ったとおり、私は忠告をしにここに来たのです。おとなしく従ったほうが身のためですよ。三十分早くても、遅くても、どうでもいいじゃないですか。しかもその違いがあなたには監獄を意味するのです。おやすみなさいまし」

 彼女は出て行きました。私は廊下まで追いかけていきました。下の通りのほうからタクシーががたがたと走りだす音が聞こえました。

 私は部屋に戻り、座りこみました。気が動転したのです。窓の外では都会が絶え間なく交響楽を演奏しています。バス、列車、決して止むことのない人声。私は外をみつめました。冷ややかな煉瓦の家々がひしめき、冷ややかなイギリス人どもが住んでいる、なんと広大な土地なのでしょう! 私はひどく孤独を感じました。付け加えて言えばすこしおびえてもいました。まるでこの巨大な都市がゆっくりと私に迫ってきたような気がして。

 あの謎の女は何者なのか? フレイザー=フリーア大尉の人生に対して、そして恐らくその死に対してもでしょうが、どんな関係を持っているのか。なぜ厚かましくも私の部屋に来て、とんでもない要求をつきつけるのか。

 私は、安らかな生活を犠牲にしても、真実に固執すべきだと決心しました。そして私はその決心を手放すことはなかったはずです、間もなく別の人が私を訪ねてこなければ。この訪問は最初の訪問よりはるかに不可解で驚くべきものでした。

 ウオルタースが私のドアをたたいて、二人の紳士が面会を望んでいると告げたのは、九時ぐらいのことでした。すぐさま私の書斎に入ってきたのはノーマン・フレイザー=フリーア中尉と立派な老紳士で、後者は貴族の家の壁に掛かっている色あせた肖像画のような顔をしていました。初対面の相手です。

 「お邪魔ではないでしょうね」と若いフレイザー=フリーアが言いました。

 私は大丈夫ですと請合いました。青年の顔はげっそりやつれていました。目には恐ろしい受難の色がありましたが、それでも彼の身体からは、強い決意が光輪のようにあふれているのです。

 「父を紹介いたします。フレイザー=フリーア将軍、退役将校です。ここに来たのはとても重要な用件のためでして……」

 老紳士がなにかをつぶやきましたが聞き取れませんでした。私に分かったのは、彼が長男を失いショックを受けていることでした。椅子を勧めると、将軍はそれに応じましたが、青年は苦悩に満ちた様子で床を歩くのでした。

 「長居はいたしません」と彼は言いました。「また、こういう時は、もってまわった話し方をする気になれません。直截に申しましょう。我々はあなたに折り入って頼みがあるのです。とても重要なお願いです。お断りになるかも知れませんが、そうであったとしても我々はあなたを非難などできません。しかし、あなたが、もしも……」

 「一生のお願いなのです」と将軍が突然割ってはいってきました。「しかし、おかしな話ですが、私には、願いをきいてもらったほうがいいのか、断わられたほうがいいのか、分からんのですよ」

 「お父さん、どうか、僕が言いますから……」青年の声には思いやりがこもっていましたが、しかし断固としていました。彼は私のほうにむき直りました。

 「あなたが警察に証言なさったところによると、七時をちょっと過ぎた頃に、上の部屋から争う音が聞えてきたんですね。その結果、わたしの兄は命……つまり、その……お分かりになりますね」

 一時間足らず前に帰った訪問者の目的を思い合わせるなら、青年の質問は驚くべきものでした。

 「そのように証言しました」と私。「それが真実ですから」

 「当然です」フレイザー=フリーア中尉が言いました。「しかし……ええと……実は、我々がここに来たのは、あなたに証言を変えてもらえないかとお願いするためなのです。どうか、残酷にも身内を失った私たちに免じて……一生この恩は忘れませんが……争いのあった時間を六時半にしてはもらえないでしょうか」

 私はあっけにとられてしまいました。

 「その……理由は?」私はやっとのことで声を出し、訊くことができました。

 「詳しいことはお話しできません」と青年が答えました。「ただ、これだけは申しあげましょう。この前の木曜日の晩七時に僕はたまたまサボイ・ホテルで友人たちと食事をしていました。あのときのことを忘れそうにない友人たちと」

 年老いた将軍が飛びあがりました。

 「ノーマン」彼は叫びました。「お前にこんなことをさせるわけにはゆかん! 断じて……」

 「お父さん、静かにしてください」青年はうんざりしたように言いました。「とことん話し合ったじゃありませんか。お父さんは約束なさったんですよ……」

 老紳士は椅子に沈みこみ、手で顔を覆いました。

 「もしも証言を変えてくださる気があるなら」と若きフレイザー=フリーアはつづけて言いました。「僕はただちに警察に行って、兄を殺したのは……僕だったのだと告白します。警察は僕を疑っています。連中はこの前の木曜日の午後遅く、僕が拳銃を買ったことを知っています。土壇場になってそれはナイフに代えられたのだと思っています。連中は僕が兄に借金をしていたことを知っています。そして金のことで喧嘩したことも。それから兄が死ぬことで得をするのは僕だということ、僕だけなんだということも」

 彼は急に言葉を切り、私のほうにむかってきました。両腕を前に差し出し、二度と忘れることのできない嘆願の身振りをして。

 「僕のためにそうしてください」と彼は声をあげました。「僕に自白させてください。この恐ろしい出来事を今ここで終わらさせてください」

 そんな頼みに返事をしなければならなかった人など、今までひとりもいなかったにちがいありません。

 「どうして?」私は思わずそう言い、何度もそれを繰り返していました。「どうして? どうして?」

 中尉は私のほうを振りむきましたが、私はあのような目つきを二度と見たいと思いません。

 「兄を愛していたからです」彼は言いました。「だからです。兄の名誉のため、一族の名誉のため、僕はあなたにこんなお願いをするのです。信じてください、こんなお願いはほんとうにつらい。僕からは、これ以上のことは申し上げられません。兄とはお付き合いがありましたか」

 「ほんのご近所付き合いですが」

 「では、兄のために……僕の願いを聞いてください」

 「しかし……殺人となると……」

 「あなたは争いの音を聞いた。僕は兄と喧嘩したのだ、と言うつもりです。そして正当防衛として兄に打ちかかったのだと言います」彼は父親のほうにむき直りました。「ほんの数年間、刑務所に入るだけのことです……僕は耐えます!」彼は叫びました。「一族の名誉のために!」

 老紳士はうめき声を発しましたが、頭は上げませんでした。青年は色あせた絨毯の上を、檻の中のライオンのように行ったり来たりしました。私はどう答えたものだろうと迷いながら立っていました。

 「なにをお考えになっているのか分かりますよ」と中尉。「ご自分の耳を信じられないでしょうが、お聞きになったとおりなのです。すべては……あなた方アメリカ人の言い方を借りれば……あなたにかかっているのですアップ・トゥー・ユー。あなたのお国に行ったことがありましてね」彼はみじめな笑みを浮かべました。「僕はアメリカ人を理解しているつもりです。あなた方は悲嘆にくれた人間を、今の僕のような人間を、拒むような人たちではない」

 私は彼にむけた視線を将軍のほうに移し、そしてまた彼を見ました。

 「よく考えなければなりません」と私はとっさにヒューズ大佐のことを思い出しながら答えました。「後ほど……明日にでも……結論をお伝えします」

 「あした」と青年が言いました。「僕たちはブレイ警部の前に呼び出されるでしょう。その時、お答えが聞けるでしょうね。それがイエスであることを心から望みます」

 別れの挨拶もそこそこに、彼と傷心の老紳士は出て行きました。表の戸口が閉まるや、私は急いで電話口に行き、ヒューズ大佐がくれた番号に電話をかけました。電話線のかなたからふたたび彼の声が聞こえたとき、私はほっと胸をなでおろしました。私はすぐに会う必要があると言いました。彼は、不思議な偶然ですが、ちょうど私のところに来ようとしていたのだと言いました。

 大佐が来るまでの半時間、私は夢うつつの状態で歩き回りました。彼がドアから入ってくるや、私は二つの驚くべき訪問の話を浴びせかけはじめました。女の訪問に関しては、彼はほとんどなにも言いませんでした。ただ、どんな様子をしていたか教えてほしいと言い、私がライラックの香水のことを話すと、にこりと笑いました。フレイザー=フリーア青年の荒唐無稽な願い事の話しをすると、彼は口笛を吹いてこう言いました。

 「なんと! 面白い。実に面白い。しかし驚きはしませんな。あの青年はみどころがありますよ」

 「だけど私はどうしましょう」と私は聞きました。

 ヒューズ大佐は微笑みました。

 「あなたがなにをなさろうと、大勢に影響ははないのです」と彼は言いました。「ノーマン・フレイザー=フリーアは兄を殺していません。それはそのうち証明されることです」彼はちょっと考えて「ブレイはあなたが証言を変えればきっと喜ぶでしょう。彼は事件と青年中尉を結び付けようとしてますからね。いろいろ考え合わせた上で言えば、もし私があなたの立場だったら、明日、機会を見計らって警部を満足させるようなことを言いますな」

 「つまり……争いがあった時間はまちがっていたかもしれないと?」

 「そうです。あなたがそう言ったからといって、フレイザー=フリーア青年が永遠に罪を負わされたりしないことは保証しますよ。それに、そうしてくれると、私にも都合がいいのです」

 「そうですか」と私は言いました。「でも私にはなにがなんだかさっぱり分かりません」

 「そうでしょうとも。説明したいのは山々ですが、できないのです。こう言っておきましょうか。フレイザー=フリーア大尉の死を陸軍省は極めて重大視している。そして暗殺者を追って、全く別の捜査が二つ同時に進行している。一つはブレイが指揮し、もう一つは私が指揮している。ブレイは私がこの事件の捜査に当たっていることを知らないし、私はできるかぎり知られたくないと思っている。あなたは好きなほうの捜査に協力していただいて結構です」

 「私はブレイより、むしろあなたに協力します」

 「よろしい!」と彼は答えました。「あなたは今までうまくやってきましたよ。もしもよければ、今晩、私の手助けをしてくれませんか。そのお願いをするために、電話をもらう前から、こっちへ来ようとしていたんですよ。あなたはアーチボルド・エンライトと名乗った男、大尉宛ての紹介状を書いた男を、まだ覚えていて確認することができますね?」

 「もちろんできますとも」と私は言いました。

 「では、私のために一時間ほど時間を割いてください。どうか帽子の用意を」

 そう言うわけで、カールトン・ホテルのお嬢さん、私はつい先ほどライムハウスへ行ってきたところなのです。ライムハウスがどこか、あなたはご存知ではないでしょうし、これからも知ることはないと思います。そこは絵になると同時に、吐き気を催させ、色鮮やかにして邪悪なのです。得体の知れない匂いがまだ鼻の中に満ちています。不吉な景観が、まだ目の前に浮かんでいます。そこ、ライムハウスはロンドンのチャイナタウンなのです。よこしまな道とむなしい犯罪の匂いを芬々とさせながら、ウエスト・インディア・ドック通りを中心に、都会の残りかすの底に横たわっているのです。異教徒中国人のあの特異な姿だけでなく、さまざまな人種とさまざまな土地のならず者が薄暗い明かりの路地をうろつき回っています。アラブ人、インド人、マレー人、日本人、コンゴから来た黒人、スカンジナビアから来た白人……七つの海を渡るあらゆる船から吐き出された連中を見ることができます。ここでは酔っ払った獣どもが大勢、給金をポケットに、それぞれ好みの罪悪を求めるのです。阿片が好きでたまらない連中のためには、計ったように一定の間隔をおいて阿片ランプの看板が並んでいます。

 ヒューズ大佐と私はそこに入って行きました。狭いライムハウス通りは、うす暗い店からさす明かりでところどころ黄色く照らされていたものの、ほとんど真っ暗といっていいでしょう。店はよろい戸を堅く閉ざし、かすかな光の筋しか外に洩れてこないのです。そこをさんざん歩き回って、とうとう立ち止まったのがハリー・サン・リーの「レストラン」の黒い入り口の外の暗闇でした。私たちは十分、十五分と待ちました。すると一人の男が通りをこちらへやって来て、そのドアの前で立ち止まったのです。男の意気揚揚とした歩き方は、どこかで見たことがあるような気がしました。そのときランプのかすかな光が……それはハリー・サンのほんとうの商売を示すものなのですが……男の青白い顔に当たって、私はこのまえ、インターラーケンの涼しい晩に、その男を見たことを思い出しました。ユングフラウが睨むように見下ろし、ライムハウスなど一瞬たりとも生きていくことができないあのインターラーケンで。

 「エンライトかね」とヒューズがささやきました。

 「間違いありません!」と私。

 「よし!」彼は力をこめて答えました。

 すると今度は別の男が通りをやって来て、大佐の前で急に直立不動の姿勢をとりました。

 「奴を見張れ」とヒューズは静かに言いました。「目を離してはいかんぞ」

 「分かりました」男は敬礼すると階段を上り、黒い憂鬱なドアにむかって軽く口笛を吹きました。

 ミルウオール・ドックの時計が十一時を打ったとき、大佐と私はバスに乗り、明るく楽しいロンドンへ戻るところでした。バスの中でヒューズはほとんど口をききませんでした。そしてあしたはブレイ警部を満足させてやりなさいという忠告を繰り返して、ストランド街に私を残し、去って行ったのです。

 お嬢さん、こうして私は今、自分の書斎に座って、間もなく夜明けとともに訪れるもっとも重要な日を待っているのです。今晩は波瀾に満ちた一晩でした。あなたもそれは認めてくれるでしょうね。ライラックの香水をつけた女に、嘘をつかなければとんでもない目にあうだろうと脅され、ハンサムな青年中尉からは、家族の名誉ためにそのおなじ嘘をついて、彼が確実に逮捕監禁されるよう協力してくれと頼まれる。そして今晩、私は地獄へ行き、インターラーケンで会ったアーチボルド・エンライトが悪魔と手を結んでいるさまを見ました。

 寝なければいけないのですが、寝つけないことは分かっています。あした、大尉殺害事件が山場を迎えることは間違いありません。そしてふたたび、私は自分の意に反して主役を勤めることになってしまいました。

 この巨大な灰色の悲しい都市の交響楽は、今は単なる遠くのざわめきに過ぎません。なにしろもう真夜中に近いのですから。これからこの手紙を出しにいきます……ここはロンドンですからイギリス風に「投函するポスト」というべきでしょうか……その後は自分の薄暗い部屋で夜明けを待ちます。待ちながら私は大尉やその弟やヒューズやライムハウスやエンライトのことばかりでなく、しばしば……いえ、何度も何度も……あなたのことを考えるでしょう。

 この前の手紙で私は世界大戦なんてばかばかしいと言いました。しかし今晩ライムハウスから帰ってくると、皇帝は動員令に署名をしたと新聞が伝えていました。オーストリア参戦、セルビア参戦、ドイツ参戦、ロシアとフランス参戦。ヒューズが言うには、イギリスも、もうすぐそれにつづくそうです。私もそれに間違いないと思います。恐ろしいことになりますよ、我々の前に立ちはだかる未来は。私は、少なくともあなたには、幸せだけがもたらされることを祈っています。

 お嬢さん、私がお休みと書くとき、書きながら声に出して言っているのです。そして私の声には、今はまだとてもお話しできないような気持ちがこめられているのです。

苦悶の欄の男

 テキサス娘のすみれ色の目ににくからず映ったのは、日曜日の朝、自室で読んだ手紙の最後の文句であった。しかしイギリスの早期参戦を予想した一文は、思わぬ不都合の出来しゅったいを彼女に思い起こさせた。昨晩、戦争を知らせる号外が出て、お気に入りの靴磨きの予測が正しいことを確認したとき、普段は落ち着いている父親がうろたえた様子を見せた。父親は悠長な人間ではない。それに父親は重要と見なしていない事柄に関しては、娘の言うがままになるのだが、断固たる態度の必要ありと認めれば、テコでも動かなくなることを、彼女はよく知っていた。彼にはアメリカがいつにもましてすばらしい国に見えるらしく、即刻帰る決意をしたのである。反論はなんの効果ももたなかった。

 その時ドアをノックする音が聞こえ、父親が入ってきた。その真っ赤な、汗だくの、どう見ても不満そうな顔を一目見て娘は元気づいた。

 「汽船会社に行って来たんだが」と彼ははげた頭を拭きながらぜいぜい息をした。「平日とおなじように営業していたよ。しかし休業してるも同然だった。なにもできないのだから。どの船も予約で手すりまで一杯だ。ここを脱出するには二週間はかかる。もしかしたらそれ以上かかるかもしれん」

 「残念だわ」と娘は言った。

 「いいや、そうじゃあるまい。お前は喜んでいるだろう。こんなふうに足止めを食うのはロマンチックな小説みたいだと思っておるだろう。わしも若いころの情熱を取り戻したいものだ」彼は新聞紙で顔をばたばたとあおいだ。「幸い昨日、至急運送便取扱所に行って金貨をいっぱいおろしておいた。攻撃がはじまったら、この町で小切手を現金にするのはいささか難しくなるだろうからな」

 「それは賢明だったわ」

 「朝ご飯に行く準備は?」

 「ちゃんとできてるわよ」彼女は微笑んだ。

 二人は下へ降りた。娘はレビューの小唄を口ずさみ、父親はそんな彼女を睨んでいた。彼女はもうしばらくロンドンにいられることがうれしくてならなかったのである。あの謎がまだ未解決なのに、出発なんてできるものですか、と彼女は思った。

第六章

 長く辛い戦禍の日々の中で、ロンドンの人々が、あれが最後の平和な日曜日であったのか、と思うことになるその日は、緊張と不安に包まれ過ぎて行った。月曜日の朝早く、苦悶の欄の青年から五番目の手紙が届いた。テキサスの娘はそれを読んで、なにがあっても今ロンドンを離れることはできないと思った。

 こんな内容だった。

 母国からいらした親愛なるお嬢さん

 こんな風にあなたをお呼びするのは、この暑いロンドンの午後、私にとって母国という言葉くらい心地よい響きを持つ言葉はないからです。真昼のブロードウェー。ハイカラな服を着た上流階級の人々は休暇に出かけていないけれど、それでも陽気ではつらつとした五番街。木陰は涼しく、ブルックリンやクイーンズなど南側の区域に住む外国人の姿が至る所に見られるけれど、それにもかかわらず美しくて素晴らしいワシントンスクエア。目を閉じればこんなものが浮かんできます。私は母国に帰りたくて、居ても立ってもいられません。ロンドンがこれほど残忍で、絶望的で、重苦しく思えたことはありませんでした。というのも、この手紙を書いている私の傍らには巡査が座っていて、彼と私は間もなくスコットランドヤードへむかうことになっているのです。私はフレイザー=フリーア大尉殺害容疑で逮捕されたのです!

 昨晩、私は、今日が事件の最大の山場になるだろうと予想しました。また自分がこのドラマの中でしぶしぶですが一役務めなければならないことも分かっていました。しかし朝とともに起きた一連の思いがけない出来事は、まったく想像を越えていました。恐れていた疑惑の網が、今日、私を包みこむとは夢にも思いませんでした。ブレイ警部が私を拘留するのは仕方がないと思います。理解できないのはなぜヒューズ大佐が……。

 いや、あなたはもちろんすべてをはじめからお聞きになりたいでしょう。だから最初から話します。今朝の十一時に一人の巡査が私の部屋にきました。そして、警部からの要請で、私はすぐにスコットランドヤードへ出頭しなければならない、と言うのす。

 私たち、つまり巡査と私は、ニュースコットランドヤードの裏のどこかにある狭い階段を上って、警部の部屋に行きました。ブレイが私たちを待っていました。彼は微笑を浮かべ、自信に満ちあふれていました。私は、くだらない些細なことなんですが、彼が白いバラをボタン穴につけていたことを覚えています。彼はいつもより愛想よく私に挨拶しました。彼はまず、警察は大尉殺害の容疑者を逮捕したと言いました。

 「一つ確認したいことがあるのだ。君は上の階から争う音が聞こえたのは、七時を少し回ったころだと言った。あの時の君は、少々興奮気味だった。ああした状況に置かれたら、人は間違いを犯すものだ。あれから考え直してみたかね。時間を間違った可能性はないかね」

 私は警部を満足させてやれと言うヒューズの忠告を思い出し、考え直した結果、なんだか自信がなくなってきた、と言いました。七時より前だったかもしれません……六時半とか。

 「そうだろう」とブレイは言いました。彼は気をよくしたようでした。「ああした場合は緊張して当然だな……分かるよ。ウィルキンソン、在監者を連れて来い」

 命令を受けた巡査は回れ右をして部屋を出、すぐノーマン・フレイザー=フリーア中佐と戻ってきました。青年は青ざめていました。一目で彼が何日も寝ていないことが分かりました。

 「中尉」ブレイは語気も鋭く言いました。「あなたのお兄さん、亡くなった大尉が一年ほど前にあなたに大金を貸し付けたというのはほんとうですかな」

 「ほんとうです」中尉は小さい声で答えました。

 「あなたとお兄さんは、あなたが使ったお金の額について喧嘩をしましたな」

 「はい」

 「お兄さんが死んだことで、あなたは将軍であられるお父様のただ一人の相続人になった。高利貸したちとの関係もがらりと変った。正しいですかな」

 「そうだと思います」

 「先週の木曜日、あなたはアーミー・アンド・ネイビー百貨店へ行き、回転式連発拳銃を買った。あなたは軍用の銃を持っていたが、そんなもので人を殺せば、警察の殺人捜査は、ばかばかしいほど簡単になりますからな」

 青年はなにも答えません。

 「こう考えてみようか」とブレイはつづけました。「先週の木曜日の夕方六時半に、あなたはアデルフィ・テラスのお兄さんの部屋を訪ねる。金をめぐって口論が持ちあがる。あなたは逆上する。お兄さんさえいなければ、欲しくてたまらない財産はあなたのものだ。そして……ただ想像しているだけだがね……あなたは机の上にお兄さんがインドから持ちかえった奇妙なナイフを見つける。拳銃よりも音がしないから安全だ。あなたはそれを引っつかみ……」

 「なぜ想像なんですか」と青年が話をさえぎりました。「僕はなにも隠そうとしていませんよ。あなたの言うとおり、僕がやったのです! 僕が兄を殺しました! さっさとこの事件を片づけてしまいましょう」

 その瞬間、ブレイ警部の顔にある表情が浮かびました。それは次々と事件が起きる今日一日の緊張と波瀾のなかにおいてさえ、ずっと私を悩まし、繰り返し繰り返し心に浮かんでくる表情なのです。この告白に彼がショックを受けたことはあまりにも明白でした。こんなにあっけない勝利は、彼には虚しく感じられるのだろうと私は思いました。彼は青年が戦いを挑むことを望んでいたのでしょう。たぶん警察官というのは、そういう人種なのです。

 「君」と彼は言いました。「気の毒だが、仕方がない。部下と一緒に来てくれれば……」

 その時でした、警部の部屋のドアが開いて、落ち着き払った笑顔のヒューズ大佐が入ってきたのです。ブレイは軍人の姿を見て得意げに含み笑いをしました。

 「大佐」と彼は言いました。「いいところにきた。今朝、あなたと大尉殺しの共同捜査をするという名誉な話を聞いたとき、あなたはおろかしくもささやかな賭けを申し出ましたな……」

 「覚えていますよ」ヒューズが答えました。「あなたが勝てばコガネムシのネクタイピンを、わたしが勝てばホンブルグ帽をもらう。そういう取り決めでしたね」

 「そのとおり」とブレイ。「あなたは、私じゃなくて、あなたが犯人を見つけることに賭けた。さて、大佐、コガネムシをいただかねばなりませんな。ノーマン・フレイザー=フリーア中尉はたった今、兄殺しを告白した。洗いざらい告白させ、調書をとるところだったんだよ」

 「それはそれは!」ヒューズの声は落ち着いていました。「面白い……実に面白い。しかし賭けに負けたと言う前に、そしてあなたが中尉にむりやり一部始終を告白させる前に、一つ言いたいことがあるのです」

 「話したまえ」ブレイはにやりと笑いました。

 「今朝あなたが親切にも部下を二人貸してくださったとき、私はある女性の逮捕を考えていると申しました。その女性をスコットランドヤードに連れてまいりました」彼はドアに歩み寄り、手招きをしました。背の高い、金髪の、目鼻立ちの整った三十五歳くらいの女性が入ってきました。途端にあのライラックの強い匂いが私の鼻をうったのです。「警部、ご紹介します。以前ベルリン、デリー、ラングーンにお住まいで、現在はバターシー・パーク街リートリム・グローブ十七番地にお住まいのソフィー・ド・グラフ伯爵夫人です」

 女性はブレイとむかい合いました。その目には怯え、やつれた色が浮かんでいました。

 「あなたが警部さんですか」彼女は尋ねました。

 「そうだが」とブレイ。

 「しかも人間らしい心をお持ちとお見受けしました」彼女は怒りのこもった目でヒューズを見ながらつづけました。「お願いですから、この……この悪魔の残忍な質問から私を守ってくださいまし」

 「伯爵夫人、お言葉が過ぎますよ」とヒューズは微笑みました。「でも、さきほど私に話してくださったことを警部にもしていただければ、喜んでお許ししましょう」

 女性は唇を固く閉ざし、長いことブレイ警部の目をじっとみつめていました。

 「この人に」と彼女はヒューズ大佐のほうを顎で示しながら、ようやく言いました。「私、この人に白状させられましたの……どうして白状したのか、自分でも分かりませんわ」

 「なにを白状したって言うんだ?」ブレイは小さな目をぱちぱちさせました。

 「先週の木曜日の夕方、六時半に」と女性が言いました。「私はアデルフィ・テラスの大尉の部屋に行きました。口論になり、私は机の上にあったインドの短剣をつかみ……彼の心臓の真上に突き立てたのです!」

 スコットランドヤードのその部屋に緊張した沈黙が訪れました。私たちは、初めて、警部の机の上の小さな時計に気がつきました。というのもそれが突然、ぎくっとするほど大きな音を立てて、時を刻みはじめたからです。私はまわりの人々の顔を見ました。ブレイはつかの間、驚いた表情をあらわしましたが、すぐまた仮面をかぶってしまいました。フレイザー=フリーア中尉はただただ呆然という様子。ヒューズ大佐の顔には、あからさまなせせら笑いのようなものが浮かんでいました。

 「話をつづけてください、伯爵夫人」彼はにやにや笑っていました。

 女性は肩をすくめ、軽蔑するように彼に背中をむけました。彼女の目はじっとブレイだけをみつめていました。

 「お話といっても、とても短いものです」彼女は急いで言いました。それは私にはほとんど謝罪するかのように聞こえました。「私はラングーンで大尉と知り合いました。夫がそこで仕事をしていたのです。米の輸出を。フレイザー=フリーア大尉はよく私たちのうちへ来ました。私たち……魅力的な方でしたわ、大尉は……」

 「どうぞその先を」とヒューズは促しました。

 「私たちは我を忘れるほど愛し合うようになりました」伯爵夫人は言いました。「たしか賜暇休暇をもらったということでしたが、あの人がイギリスに帰るとき、彼はもう二度とラングーンには戻らないだろうと言ったのです。彼はエジプトに転属されるだろうと思っていました。だから私は夫を捨て、次の船で彼の後を追う用意を整えたのです。私は大尉を信じて、ほんとうに私を愛しているのだと思って、そうしました。私は彼のためにすべてを捨てたのです。なのに……」

 声が途切れ、彼女はハンカチを取り出しました。またあのライラックの匂いが部屋の中に満ちました。

 「ロンドンに来てから、しばらくのあいだ、私はよく大尉に会っていました。そしてある変化に気がつき出したのです。おなじイギリス人の中に戻って、インドでの孤独な日々は単なる思い出になったのでしょうか、彼はもはや……私を好きではなくなったようなのです。そして先週の木曜日の朝、彼は私を訪ねてきて、私たちの関係はこれまでだ、もう私に会いたくはない……実はずっと待ってくれていたイギリス人の女と、結婚する予定なのだと言うのです……」 女性は哀れな様子で私たちを見回しました。

 「私は絶望しました」彼女は熱をこめて言いました。「私は人生のすべてを捨てたのです……今や私を冷たく見すえ、他の女との結婚を口にするような男のために。私がその日の夕方、彼の部屋に行き……訴え……膝もつかんばかりに懇願したのは不思議なことでしょうか。しかし無駄なことでした。関係は終わったのだ、彼は何度も何度もそう言いました。私は理性を失い、怒りと絶望にかられ、机からナイフをつかみ上げると、彼の心臓に突き立てました。私はすぐに後悔の念で一杯になりました。私は……」

 「ちょっとお待ちください」とヒューズが割りこんできました。「その後の行動の詳細は、後ほどうかがいましょう。すばらしいですな、伯爵夫人。回を重ねるごとにお話が上手になる」

 彼はブレイのほうに歩み寄り、顔を突き合わせました。私は彼の声にはっきりと敵意の響きを聞き取りました。

 「警部、王手ですよ」彼は言いました。

 ブレイはなにも言いません。彼は椅子に座り、大佐を見上げました。その顔は石のようでした。

 「コガネムシのネクタイピンは」とヒューズはつづけました。「まだ手に入りませんぞ。勝負は引き分けです。あなたは自白を手に入れた。しかし私もおなじように自白を手に入れた」

 「信じられん」ブレイが怒ったように言いました。

 「私にとってもいささか信じがたい事態です」と大佐が答えました。「ここに先週の木曜日の夕方六時半にフレイザー=フリーア大尉を部屋に訪ねて殺害したと信じてもらいたがっている方が、二人もいらっしゃる」

 彼は窓のほうへ歩いて行ったかと思うと、芝居がかった身のこなしでくるりと振り返りました。

 「なかでもいちばん奇怪なのは」と彼はつづけました「木曜日の夕方六時半、ソーホーの人目につかないレストラン・フリガッチで、この二人が一緒にお茶を飲んでいたということです!」

 大佐が落ち着き払ってこの情報を差し出したとき、私たちが巻きこまれた謎が終りなき迷宮であることに気づき、私は急に全身から力が抜けてしまったことを認めなければなりません。女性は小さく叫び、フレイザー=フリーア中尉は飛びあがりました。

 「どうしてそんなことを知っているんだ」彼は大声をあげました。

 「知っているのですよ」とヒューズ大佐。「私の部下の一人が、たまたま近くのテーブルでお茶を飲んでいたのです。たまたま部下がそこでお茶を飲んでいたのはですね、こちらの女性がロンドンに到着してからというもの、インドの……なんですよ……友達から依頼がありましてね、私は彼女の動きを逐一追っていたのです。あなたのお兄さん、お亡くなりになった大尉を見張っていたのとおなじようにね」

 フレイザー=フリーア中尉は、なにも言わず椅子に沈みこみ両手で顔を覆いました。

 「ご同情いたします」ヒューズは言いました。「心から同情しますよ。あなたは自分を犠牲にして事実を隠そうとした。立派な男らしい努力でした。しかし陸軍省はあなたよりずっと前から知っていたのです、あなたのお兄さんが、こちらの女性の誘惑に屈し、祖国イギリスのために働くのではなく、彼女とドイツのためにスパイを働いていたことをね」

 フレイザー=フリーアは頭をあげました。彼が話すその声には、先ほどの途方もない告白をしたときより、はるかに誠実な調子がありました。

 「万事休すですね」と彼は言いました。「ぼくは自分にできることをすべてやりました。父にとっては大打撃でしょう。僕たちは名誉ある一族なのです、大佐。ご存知でしょうが……何代にもわたる軍人の家系で、祖国への忠誠はかつて一度も疑われたことがありません。僕が告白しさえすれば、このいやな事件にけりをつけられる、捜査を終らせ、彼……兄のいまわしい所業を永遠に隠してしまえると思ったのです」

 ヒューズ大佐は青年の肩に手をかけました。青年は話をつづけました。

 「僕の耳にも人づてに届いていました……スティーブンに対するおそろしい、遠まわしな中傷は。ですから兄がインドから帰ってきたとき、見張っていようと決心したのです。兄はこの女の家にしばしば行きました。僕は彼女がラングーンから届いた噂の女と同一人物であることを確かめました。そして変名を使って、なんとか彼女と会う約束を取り付けたのです。僕は、僕自身も忠誠心とは縁がない人間であることをそれとなくにおわせました。全面的に信用されたわけではありませんが、ある程度は彼女の信頼を得ることができました。僕はしだいに、兄が国家にも、一族の名声にも、僕たちみんなに対してもほんとうに裏切りを働いていることを確信するようになりました。僕がとうとう決意したのは、あなたがおっしゃったお茶の席でのことです。僕はすでに拳銃を買っていました。それをポケットに入れて、夕ご飯を食べにサボイ・ホテルへ行ったのです」

 彼は立ち上がり部屋の中をゆっくり行ったり来たりしました。

 「僕はサボイ・ホテルを早めに出て、スティーブンの部屋に行きました。議論して決着をつけようと、事実を遠慮なく兄に突きつけてやろうと、心に決めていたのです。そしてもしも説明がなかったなら、僕はその時、その場で、兄を殺すつもりでした。お分かりでしょう、僕は現実に罪は犯していませんが、罪を犯そうとする意志はあったのです。僕は兄の書斎に入りました。そこは見知らぬ人々で一杯でした。ソファには兄のスティーブンが横たわっていて……心臓をひと突きされて……死んでいました」一瞬、沈黙がありました。「それがすべてです」とフレイザー=フリーア中尉が言いました。

 「私が思いますに」とヒューズが優しく言いました。「中尉の取り調べはこれで終ったのじゃありませんか。どうです、警部」

 「ああ」ブレイはぶっきらぼうに言いました。「君は帰ってもよろしい」

 「ありがとうございます」と青年は答えました。出て行くとき、彼はヒューズにむかって途切れ途切れに「お父さんを……さがさなくちゃ」と言いました。

 ブレイは椅子に座って、怒ったように顎を突き出しながら、前方を厳しく睨んでいました。突然、彼はヒューズのほうにむきを変えました。

 「フェアな戦い方じゃないな」と彼は言いました。「陸軍省が大尉を見張っていたなんて知らなかった。なにもかもいま初めて聞いた」

 「分かりました」ヒューズは笑って言いました。「お望みなら賭けは取りやめにしましょう」

 「とんでもない!」ブレイは大声で言いました。「賭けはまだ有効だ。しかも俺が勝って見せる。自分じゃなかなかの仕事をしたと思ってるだろうが、しかし、われわれは真犯人の発見に少しでも近づいたのかな。どうだね」

 「少なくとも幾分かはね」ヒューズが穏やかに答えました。「こちらのご婦人は、もちろん拘留されるんでしょうね」

 「そうだ、そのとおりだ」と警部は答え、「女を連れて行け!」と命じました。

 巡査が伯爵夫人の前に進み出て、ヒューズ大佐が慇懃にドアを開けました。

 「ソフィー」と彼は言いました。「別の話をでっち上げるいい機会だ。君は頭がいい。それくらい朝飯前だろう」

 彼女はむっとした目つきで彼をみつめ、出て行きました。ブレイは机から立ち上がり、ヒューズ大佐とテーブル越しにむかい合いました。両者のあいだには永遠に相容れないものがある、彼らの様子を見て私はそんなふうに感じました。

 「ほんの少しは近づいただと?」ブレイがせせら笑いました。

 「我々が見落としていた可能性が一つあります」ヒューズは答えました。彼は私のほうをむき、私はその目の冷酷さにぎょっとしました。「ご存知ですか、警部。このアメリカ人が大尉宛ての紹介状をたずさえて、ロンドンにやって来たことを。大尉の従兄弟、アーチボルド・エンライトが書いた手紙なんですがね。さらに言えば、フレイザー=フリーアにはそんな名前の従兄弟はいなかったんですよ」

 「なんだと!」とブレイ。

 「嘘じゃありません」とヒューズ。「このアメリカ人がそう私に告白したのですから」

 「そういうことなら」とブレイが私にむかって言いました。ぱちぱちとしばたたく小さな目は、狭量で疑い深い視線を、私に送るのです。私は背筋が寒くなりました。「お前を逮捕する。今までアメリカ領事館の知り合いに免じて特別扱いをしてきたが、それもこれで終わりだ」

 私は仰天しました。そして大尉のほうをむきました。彼は味方が必要なら自分を当てにしてくれと言ったのです。このような不測の事態から助けてくれるものと、頼みにしていた人物です。しかし彼の目はまったく無表情で同情のかけらもありません。

 「そのとおりです、警部」と彼は言いました。「この男は監禁すべきだ!」私が抗議しはじめると、彼は私のすぐそばを通って、そっとささやきました。「なにも言うな。待て」

 私は部屋に帰って、友達と連絡をとったり、領事館や大使館を訪れる許可を与えてくれと頼みました。大佐の助言もあって、ブレイはこのやや異例の取り扱いに同意しました。そういうわけで今日の午後、私は巡査に付き添われて外に出ました。そして、この長い手紙を書いているあいだ、巡査は私の安楽椅子でそわそわしていたのです。今、彼はもう待てない、すぐ出なければならない、と言っています。

 あれこれ考える時間はありません。これからどうなるのかとか、私に対する大佐の突然の変節や、耳元でささやいた彼の約束について考える時間はないのです。今晩、私が夜を過ごす場所は、間違いなく、観光案内があなたにスコットランドヤードですと言って指さした、あのいまわしい不気味な壁の背後でしょう。そして私がふたたびペンを手にして、最後の手紙に思いのたけを……

 巡査は待ってくれません。彼は子供のようにいらだっています。一時間も待たされたなどと言っていますが、まったくの嘘です。

 お嬢さん、私がどこにいこうと、この奇怪なこみ入った謎の結末がどうなろうと、あなたへの思いは……

 ええい、いまいましい!

不当に逮捕された男

 苦悶の欄の若い男から五番目の手紙がカールトン・ホテルに届いたのは、読者も覚えておられるように、八月一日の月曜の朝だった。それはテキサスの娘に、アデルフィ・テラス殺人事件の興奮のクライマックスを伝えるものであった。面識はないが、感じのいい若い男友達が、事件の容疑者として逮捕されたというニュースは、避けられない進展として予想されていたにもかかわらず、彼女に深刻な衝撃を与えた。彼女は彼を助けるために自分にできることはないだろうかと考えた。みずからスコットランドヤードへのりこみ、父親がテキサス州選出の下院議員であることを盾にとって、イチゴ男の即時釈放を求めようかとすら思った。しかしテキサス州選出の下院議員などロンドンの警察からは洟もひっかけられはしないと、分別のある判断をくだしたのだった。さらにその下院議員にたいして、新聞にもまだ出ていない犯罪を彼女が知悉している理由を説明するのは、容易なことではなかっただろう。

 彼女は五番目の手紙の後半を読みなおした。そこには彼女のヒーローが、不名誉にもスコットランドヤードへとむかう姿が描かれている。彼女は心配そうに小さいため息をひとつついて、父親と合流するために下へ降りて行った。

第七章

 その日の朝、彼女は殺人に関する国際法上の微妙な点について、父親に訳ありげな質問をいくつかした。父親がほかのことに気を取られ、はなはだしく興奮していなければ、恐らくこの質問の奇妙さに気がついていただろう。

 「いいか、帰らなきゃたいへんなことになるぞ!」彼は憂鬱そうにそう告げた。「ドイツ軍はエクス・ラ・シャペルでリエージュ攻撃に備えている。そう、あいつらはベルギーに襲いかかるつもりだ! それがどういうことか分かるか? イギリス参戦だよ。労働問題や女性参政権問題やアイルランド内乱なんぞ、去年の冬、テキサスに降った雪みたいにあっという間に消えてなくなるだろう。連中は参戦するぞ。しなけりゃ国家的自殺行為だ」

 娘は大きく目を見開いて父親を見た。彼女は、父がカールトン・ホテルの靴磨きの受け売りをしていることを知らなかった。そして思っていたよりも父は外交問題に通じているのではないかと考えはじめた。

 「そうとも」彼はつづけた。「我々は帰国しなければならん、急いでな。ドンパチがはじまればここは非戦闘員には安全な場所じゃなくなる。わしは帰るぞ、定期船を買収してでも」

 「とんでもないわ!」と娘が言った。「これこそ一生に一度の好機よ。あたし、なにもわかってないお父さんにだまされて、絶好の機会を逃したくないわ。ほら、ここであたしたちは歴史とむかい合っているのよ!」

 「アメリカの歴史だけでたくさんだよ」彼は手も足も放り出した。「なんだ、その目つきは?」

 「骨の髄まで田舎者なんだから」彼女の言葉には思いやりがこもっていた。「お父さん……あたし、お父さんが大好きよ。アメリカの政治家の中には理解できない事態を前にしてほうけたような顔をしている人もいるでしょうね。お父さんがそんなふうにならなければいいと思うわ」

 「無駄口はもういい!」彼は大声を出した。「わしは今日、汽船会社の事務室に行って掛け合ってくる。選挙のときより激しくな」

 父が固く決心していることが、娘には分かった。長い経験から得た知恵で、彼女は思いとどまらせようとはしなかった。

 その暑い月曜日のロンドンは、警戒体制に入った都市、恐れおののく人々の都市であった。ある新聞の号外に載った噂は次の号外で否定され、その次の号外で再び肯定された。先見の明ある人間は幸せからはほど遠い表情を浮かべて通りを歩いた。不安が町を支配した。そしてスコットランドヤードの威圧的な壁のむこうで「不当監禁」されている苦悶の欄の友人を思いやるテキサス娘の胸にも、その不安はこだましていた。

 午後、父親は勝利者のようなにこやかな笑みを浮かべて現れた。三日後に汽船サロニア号で出航予定だった男から、途方もない額で切符を買い取ったらしい。

 「連絡列車は木曜日の朝十時に出る」と彼は言った。「最後のヨーロッパ見学と帰る準備をしておきなさい」

 たった三日間! 娘は聞きながら気持ちが沈んだ。三日のうちにあの不思議な謎の結末を聞くことができるだろうか。公共の刊行物を使って、型破りな声のかけ方をしてきた男の最後の命運を見極めることができるだろうか。そうだわ、あの人、三日経ってもまだスコットランドヤードにいるかもしれない、囚人として! ほんとうにそうなったとしたら、立ち去ることはできない。とてもできるものじゃない。彼女はもう少しで父親に洗いざらい話をするところだった。父の怒りを静め、その協力を取り付ける自信があったのである。が、彼女は次の朝まで待つことにした。そしてもし手紙が来なければ、その時は……

 しかし火曜日の朝、手紙が来た。その最初のほうには喜ばしい知らせが書かれていた。最初のほうには……そのとおり、喜ばしい知らせが。ところが最後のほうには! これがその手紙である。

 安否を気遣う親愛なるお嬢さま

 英国インド陸軍大尉を殺害したかどで監禁され、わたしに有利な証拠はなにもなし、希望はまことにかぼそい、小さな声で語りかけるだけ、そんなありさまをご存知のお嬢さまが、私の安否を気遣っているだろうと考えるのはうぬぼれでしょうか。

 お嬢さん、ご心配はもう無用です。先週の木曜以来、私の運命であった驚くべき日々の中で、もっとも驚くべき一日が経過したばかりなのです。そして今、私は自由の身となって夕闇に包まれた自分の部屋に腰かけ、先ほど経験したばかりの思いも寄らぬ冒険のあと、思う存分、平和と静寂を味わいながら、あなたへの手紙を書いているのです。

 私への疑惑は晴れ、巡査たちの見張りも、もうありません。スコットランドヤードは私にたいしてひとかけらの興味すら抱いていないのです。なぜならフレイザー=フリーア大尉の殺人者がとうとうつかまったからです!

 日曜日の夜を、私は不名誉にもスコットランドヤードの独房で過ごしました。私は眠れませんでした。いろいろなことを考えたのです……たとえばあなたのことを。そしてその合間に、身動きも取れないくらいまわりに張り巡らされた罠から逃れる手立てのことを。領事館の友人ワトソンが夜遅く訪ねてきて、とても気を遣ってくれました。しかし彼の声にはなにかが欠けているのです。彼が帰った後、恐ろしいことですが、結局、彼も私の有罪を信じているのだと確信を抱きました。

 一夜が過ぎ、今日という日も、詩人風に言えば「歩みも遅々と」大部分が過ぎて行きました。私は日射しを受けて黄色くみえるロンドンを思い、カールトン・ホテルを思いました。今はもうイチゴはないでしょうね。私のウエイター、あの背筋をぴんと伸ばしたプロシア人は、今ごろ、祖国ドイツで連隊行進に加わっているでしょう。そして私はあなたのことを考えました。

 今日の午後三時に私はブレイ警部の部屋に連れ戻されました。しかし私が部屋に入ったとき、警部はそこにいませんでした。ただヒューズ大佐のみが、いつものとおり身だしなみよく、冷静な態度で、窓からわびしい石畳の中庭を眺めていました。私が入ると、彼は振り返りました。私は見るも痛ましい姿をしていたのに違いありません。後悔の表情が彼の顔を横切ったのですから。

 「いや、まことに申し訳ない! 昨日の晩、釈放させようと思っていたのですが、あまりにも忙しかったのです」

 私は黙っていました。なにが言えるでしょうか。忙しかったなど、随分ふざけた言い訳だと思いました。しかしすぐにも法の網を逃れることができるのかと思うと、胸がどきどきしはじめました。

 「許していただけないかも知れませんね、昨日、あなたをあんなふうに見捨てたりして。ただ、あれはどうしても必要だったのです。間もなくご理解いただけると思うのですが」

 私は態度を少し軟化させました。なにしろ彼の声と態度には疑いようのない誠意があったのです。

 「いまブレイ警部を待っているんですよ。この事件の決着を見届けたいと思っていらっしゃるでしょう?」

 「最後まですべてを」と私は答えました。

 「当然です。警部は昨日の会見の後、すぐ呼び出しを受けました。どうも大陸のほうで仕事があるようです。しかし幸いにも、ドーヴァーに着いたとき、彼と連絡が取れまして、ロンドンに戻ってきてもらいました。彼が必要なのですよ。フレイザー=フリーア大尉殺害の犯人が見つかったのですから」

 私はそれを聞いてわくわくしました。私にとって、それこそ熱烈に望んでいた結末なのです。大佐は話すのを止めてしまいました。数分後、ドアが開いてブレイが入ってきました。まるで昨夜は服を着たまま寝たような様子で、その小さな目は血走っていました。しかしそこには忘れることができない火のようなきらめきがありました。ヒューズはお辞儀をしました。

 「こんにちは、警部」彼は言いました。「仕事の邪魔をして、ほんとうに申し訳ありません。しかしあなたが私にホンブルグ帽の借りがあることを、どうしてもお伝えしたかったものですから」彼は警部に歩み寄りました。「いいですか、賭けに勝ったのは私です。フレイザー=フリーア大尉を殺した男を見つけました」

 奇妙なことにブレイはなにも言いませんでした。彼は机に座ると、そこに積まれた郵便の山をぼんやりと眺めました。ようやく彼は顔を上げると、疲れたような口調で言いました。

 「あんたは切れ者だな、ヒューズ大佐」

 「いいえ、そんなことはありません」とヒューズは答えました。「運がよかったのです――最初から。この事件にたずさわることができて、ほんとうによかったと思います。私が捜査に参加していなかったら、きっと無実の人間が憂き目を見ることになったでしょう」

 ブレイの大きく丸々とした手は、机の上の手紙をもてあそびつづけました。ヒューズはつづけます。

 「有能な警部としてあなたも、私がホンブルグ帽を勝ち取るに至った一連の事情に興味がおありではないですかな。もうお聞きでしょうが、私が捕まえた男はフォン・デア・ヘルツ。十年前はドイツ政府のために働いていたいちばん優秀な秘密諜報員でした。ところがここ数年は不可解にも我々の前から姿を消していました。我々陸軍省はずっといぶかしく思っていました」

 大佐は椅子に腰を下ろし、ブレイにむかい合いました。

 「フォン・デア・ヘルツはもちろんご存知ですよね」彼は何気なく言いました。

 「当然だ」ブレイはやはり疲労困憊した声で言うのです。

 「奴はイギリスにいるスパイどもの首領格です」ヒューズはつづけました。「彼を捕まえたことは、ちょっとした自慢の種になりますな。いや、うぬぼれるのはよしましょう。私が捕まえてなくても、かわいそうなフレイザー=フリーアが捕まえていたでしょうから。ただフォン・デア・ヘルツは運よく先に大尉を殺すことができたというだけです」

 ブレイは目を上げました。

 「あんたが話すといってたのは……」彼は言いかけました。

 「これから話しますよ」とヒューズ。「フレイザー=フリーア大尉はインドで不祥事をおこし、昇進の機会を失いました。彼は軍務に不満を抱いている、嫌気がさしていると疑われました。そしてソフィー・ド・グラフ伯爵夫人がその魅力で彼を誘惑し、大尉の忠誠心を殺し、仲間にひきこもうとしはじめたのです。

 彼女はそれに成功したように思われました。ドイツの外務省はそう思いました。我々、陸軍省もそう思いました。彼がインドにいるあいだは。

 ところが大尉と女がロンドンに来たとき、我々は大尉を不当に評価していたことに気がついたのです。彼は最初の機会が訪れたとき、我々に、名誉挽回の努力をしていること、危険なスパイどもを、自分もその一人のふりをして、一網打尽にしようと考えていることを伝えてきたのです。彼は、ロンドンでフォン・デア・ヘルツ、つまりスパイの中でもいちばんの大物に会うのが自分の使命だと語りました。そしてこの男の居場所がわかったら、また連絡するとも言いました。それから数週間、私は伯爵夫人を見張りつづけました。また大尉も、一応ですが、監視していました。というのは、恥ずかしながら、私は彼を完全に信頼していなかったのです」

 大佐は立ちあがって窓のほうへ行きました。そして振り返ると、話をつづけました。

 「フレイザー=フリーアとフォン・デア・ヘルツはお互いのことをまったく知りませんでした。手紙を連絡手段として使うことは禁じられていました。しかしフレイザー=フリーアはなんらかの方法でスパイの首領から連絡がくることを知っていたのです。しかもデーリー・メールの私事広告欄を注意して見ろと言う示唆も受けていました。今や我々は、あの四つの奇妙なメッセージを説明できます。あの欄を見てラングーンから来た男は白いシナギクをボタン穴にさし、ネクタイにはコガネムシのピンをし、ホンブルグ帽をかぶって、先週の木曜日の晩十時にリージェント通りのイ・オールド・ガンブリヌス・レストランでフォン・デア・ヘルツと会わなければならないことを知ったのです。我々も知っているように、彼はこれらの指示にしたがって準備をしました。その他にも彼がしたことがあります。彼がスコットランドヤードに来るのは論外ですから、巧妙な手を使って一人の警部とホテル・セシルで落ち合うことにしたのです。その時に、フォン・デア・ヘルツが木曜日の晩、大尉に正体を明かしたら、その場で逮捕するという手はずがととのえられたのでした」

 ヒューズは話を中断しました。ブレイは手紙の山をもてあそびつづけ、大佐はそんな彼をいかめしい顏つきでみつめていました。

 「かわいそうなフレイザー=フリーア!」ヒューズはつづけます。「彼にとって不運だったのは、フォン・デア・ヘルツが自分を罠にかける計画を、警部とほとんど同時に知ったことでした。スパイに残された道はただ一つしかありませんでした。彼は大佐の下宿先を突き止め、あの晩の七時にそこへ行き、忠節で勇敢なイギリス人を殺害したのです」

 緊迫した静寂が部屋を満たしました。私は椅子から身を乗り出して、いったいこの絡み合った謎が解けた先に、なにがあるのだろう考えていました。

 「私が持っていた手がかりは実にわずかでした」ヒューズは話を進めます。「しかし私に有利なこともありました。つまりスパイは警察だけが殺人犯を追っていると思っていたのです。彼は私をまこうともしませんでした。なぜなら私が捜査に当たっていると思っていなかったからです。それまで何週間ものあいだ、私の部下は伯爵夫人を見張っていました。私は監視をつづけさせました。遅かれ早かれ、フォン・デア・ヘルツは彼女に接触するだろうと考えていたのです。私の考えは当たりました。そしてついに自分の目で、まがうかたなきフォン・デア・ヘルツその人を見たとき、私は愕然としましたよ、警部、圧倒されるような思いでしたよ」

 「そうかね」とブレイ。

 「その後、私は、彼がアデルフィ・テラスのあの事件とどう結びついているのか、鋭意調査に取り掛かったのです。大尉の書斎にあった指紋は、なぜかことごとく拭き取られていました。しかし私は屋外で犯人の指紋を見つけました。それは庭から外へ通じる、めったに使われない門の埃についていたものです。私は疑いをかけていた男から、その右手の親指の指紋をこっそりと採取しました。両者の類似は驚くほどでした。次に私はフリート街の新聞社へ行き、幸運にもデーリー・メールに送られたあの四つのメッセージのタイプ用紙を手に入れたのです。それを見ると小文字のaが文字列を外れていることに気がつきました。私は容疑者の所有しているタイプライターで書かれた手紙を手に入れました。aが列をはみ出していました。そのころアーチボルド・エンライトという、我々のあいだでは売国奴としてよく知られている裏切り者のろくでなしが、イギリスにやって来たのです。容疑者と彼はイ・オールド・ガンブリヌスで落ち合いました。そして最後に、私がフォン・デア・ヘルツに間違いないと確信する男の下宿を訪ねたとき、私はベッドのマットレスの下からこのナイフを発見したのです」

 ヒューズ大佐は警部の机の上に、私がフレイザー=フリーア大尉の書斎で最後に見たインドのナイフを放り出しました。

 「昨日の朝、この部屋にいたとき、私はこうした証拠をみんなつかんでいたのですよ。それでもそれらが示す答えはあまりにも信じがたく、あまりにも驚くべきものなので、私は確信が持てませんでした。さらに強力な証拠がほしかったのです。それで私はここにいるアメリカ人の友達に疑惑がかかるようにしむけました。私は待っていました。フォン・デア・ヘルツもさすがに危険を察知するだろう、機会さえあれば、イギリスから出て行こうとするはずだ、と考えていました。彼がどんなにずる賢いとは言え、そうなればクロであることの証拠は決定的になります。予想は的中し、彼はその日の午後、伯爵夫人を釈放し、二人そろって大陸へむかったのです。彼をドーヴァーで捕まえることができたのは幸運でした。そして喜んで夫人のほうはそのまま見逃したのです」

 私は驚くべき真相にそのときようやく気がつき、はっとしました。ヒューズがその獲物を見下ろして、微笑んでいました。

 「ブレイ警部」と彼は言いました。「あるいはフォン・デア・ヘルツ、あなたを二つの犯罪で逮捕します。一つはイギリスに潜入したドイツのスパイ組織の首領として、二つ目はフレイザー=フリーア大尉殺害の犯人として。それから差し出がましいようですが、あなたの有能さには敬意を表したいと思います」

 ブレイはしばらく返事をしませんでした。私は麻痺したように椅子に座っていました。やっと警部が顔を上げました。彼は驚いたことに笑顔を浮かべようとしていました。

 「帽子はあんたのものだ」彼は言いました。「が、ホンブルグまで買いに行かなければならんぞ。喜んで費用は全額払うが」

 「恐れ入ります」ヒューズが答えました。「遠からずあなたのお国を訪問したいと思います。しかし、帽子選びにうつつを抜かすわけにはいかないでしょうね。もう一度賞賛の言葉を差し上げましょう。あなたは少々注意が足りなかった。しかしあなたの地位を考えればそれも当然でした。スパイ狩りを専門にするスコットランドヤードの一部局の指揮者なのですから、警戒の必要などないと思っていらっしゃったのでしょう。フレイザー=フリーアは実に運が悪かった。あなたのところへ行って、あなた自身の逮捕の手はずをととのえたのだから! 私はその情報をホテル・セシルのフロント係から聞きました。あなたの立場からすれば、彼を殺すのは当然です。しかも、さっきも言ったように、多少危険を犯しても大丈夫でした。あなたは、大尉殺害の知らせがスコットランドヤードに届いたら、自分が捜査を指揮できるよう、前もって手配していました。巧妙に仕組みましたな」

 「あの時はそう思えた」とブレイが認めました。そのとき初めて、私は彼の声に苦い響きを聞き取りました。

 「たいへん残念なことですが」とヒューズ。「今日か、遅くとも明日にはイギリスは戦争に加わるでしょう。それがどういうことか分かっていますね、フォン・デア・ヘルツ。ロンドン塔、そして銃殺刑執行隊!」

 彼はゆっくりと警部のそばを離れ、窓にむかい合うように立ちました。フォン・デア・ヘルツは机の上のインドのナイフをぼんやりひねくり回していましたが、ふと怯えたような目つきで部屋の中をすばやくみまわすと、その手を振り上げたのです。そして私が止めようと前に飛び出すよりも先に、ナイフを自分の心臓に突き立てました。

 ヒューズ大佐は私の叫びを聞いて振り返りました。しかし目の前の光景を見ても、あのイギリス人は動じませんでした。

 「惜しい」と彼は言いました。「実に惜しい人物だった。勇気があって、しかもすぐれた頭脳の持ち主でしたよ、疑いもなく。しかし……これは彼の優しい気遣いですな。いろいろな面倒を省いてくれたのですから」

 大佐は私をすぐ釈放してくれました。スコットランドヤードの冷え冷えとした壁を経験した後には、とても心地よく感じられる明るい日射しを浴びて、彼と私はともにホワイトホールの通りを歩きました。彼は前日、私に疑惑の目をむけさせたことをもう一度詫びましたが、私はなんの恨みも抱いていないと言って彼を安心させました。

 「分からないことが一つ二つあるのですが」と私が言いました。「インターラーケンから私が持ってきたあの手紙は……」

 「簡単なことです」と彼は答えました。「エンライトは……今はロンドン塔の牢獄ですがね……フレイザー=フリーアと連絡をとろうとしました。奴は大佐を忠実なスパイ団の一員と思っていたのです。郵便で手紙を送るのは危険だと思われました。そこで、あなたの親切な協力によって、大尉に自分の居場所と、目前に迫ったロンドン到着の日付を教えたわけです。フレイザー=フリーアは、あなたが計画にまきこまれることを望まず、あなたを遠ざけるために従兄弟の存在を否定したのです。もちろんそれは真実でしたが」

 「なぜ伯爵夫人は私に証言を変えるよう要求したのですか」

 「ブレイがやらせたのですよ。彼はフレイザー=フリーアの机を捜してエンライトの手紙を手に入れました。彼は若い中尉に罪を押しつけようとやっきになっていました。あなたと、あなたの犯行時刻に関する証言が邪魔だったのです。彼はあなたを脅迫し……」

 「でも……」

 「分かりますよ、伯爵夫人がなぜ次の日、私に告白したのか不思議に思っているのですね。私は少々脅してやったのですよ。矢継ぎ早の質問の網にひっかかって、身動きができなくなったんですな。彼女は何週間も見張られていたことや、フォン・デア・ヘルツも思っていたほど安全ではないことを悟り、急に怖くなったんでしょう。頃合いを見計らって、私は、彼女をブレイ警部のところへ連れて行かねばならないだろうと言いました。これが彼女にアイデアを与えたのですね。彼女は嘘の告白をでっちあげ、彼のもとに行きました。そこで彼女は、彼が危険であることを知らせ、二人で逃げたと言うわけです」

 私たちは少しのあいだ黙って歩きつづけました。まわりでは毒々しい見出しをつけた午後の号外が、来るべき恐怖をこれ見よがしに報じていました。大佐は厳粛な面持ちでした。

 「フォン・デア・ヘルツはどのぐらいスコットランドヤードにいたのですか」私は聞きました。

 「ほぼ五年です」ヒューズが答えました。

 「信じられませんね」私はつぶやきました。

 「そうですね」と彼が答えました。「しかしそれはこの戦争が明らかにする数多くの信じられない事実の最初の一つに過ぎません。二カ月もたてば、さらに信じがたい新たな暴露を前に我々はこんなことは忘れてしまっているでしょう」彼はため息をつきました。「ここにいる人々が、我々を待ちうける恐るべき試練に気がついてさえいれば! 国家として統制がとれておらず、準備は不足している。われわれが払わなければならない犠牲を思うとぞっとします。しかもその多くは無駄な犠牲です。それでも時間がたてば、いつかは、なんとか切りぬけられるんでしょうけど」

 彼はトラファルガル広場で私に別れを告げました。そしてこれからすぐ亡くなった大尉の父親と弟を探しだし、彼らの血族がほんとうは祖国に忠実であったことを話してやらなければならないと言いました。

 「彼らにとって、この知らせは暗闇にさす一筋の光になるでしょう」と彼は言いました。「あなたにはもう一度お礼を言います」

 私は彼と別れ、下宿に戻りました。謎はついに解けました。悪夢としか思えないような結末ではありましたが、しかし解決したことは解決したのです。私は心安らかであるべきなのです。しかし、たった一つ私をさいなみ、休ませようとしない、まがまがしい事実があるのです。お嬢さん、私はそれをお話ししなければなりません……ですが、それが一切の終わりになりはしないかと不安なのです。なんとかあなたのご理解がいただけたらいいのですが!

 私は部屋の中を歩き、考えこみ、困惑し、迷いました。そして今、決心しました。他に方法はありません。あなたに真実をお話ししなければなりません。

 ブレイがフォン・デア・ヘルツであったという事実にもかかわらず、彼が罪の露見により自殺したという事実にもかかわらず、あれやこれや一切合切にもかかわらず、ブレイはフレイザー=フリーア大尉を殺していないのです!

 この前の木曜日の晩、七時すこし過ぎに私は階段をあがり、大尉の部屋に入り、机からナイフを取りあげ、彼の心臓に突き刺したのです! 

 どのような挑発を私が受けたのか、どのような深刻な必要が私を動かしたのか……このすべてを知りたければ明日までお待ちいただかなければなりません。私は自己弁護を用意しながら、もう一日不安な日を過ごすことになるでしょう。慈悲深い奇跡が起きて、あなたが私を許し、私にはそうする以外どうしようもなかったのだということを理解してくれることを望みながら。

 お嬢さん、事件の一部始終を知るまで結論を下さないでください。私が証拠を洗いざらい、あなたの美しい手に差し出すまでは。

あなたの卑しきしもべ。

 苦悶の欄の男から来た六番目の、そして最後から二番目の手紙は、初めのうち、それを読む娘の顔に安堵の笑みを浮かべさせた。彼女は友人がヴィクトリア・エンバンクメントに沿った、あの灰色の壁のむこうで、もはや、やるせない思いをしてはいないことを知り、無条件に喜んだ。読み進むにしたがい、ますます興奮を覚えながら、彼女は手紙の中のヒューズ大佐がしだいに事件の核心へと近づき、ついに椅子に座るブレイ警部を指差し、犯人と指摘するまで、彼の一挙手一投足をじっと見守ったのである。これは十分納得のいく解決であり、彼女の友人を監禁した警部には、当然の報いであった。ところが手紙の最後では、飛行船から落とされた爆弾さながらの唐突さで、イチゴ男が罪の告白をしているのだ。実は彼こそが殺人犯だった! 彼はそれを認めている! 彼女は自分の目が信じられなかった。

 しかしぞくぞくするようなこの一週間のあいだに、すっかりおなじみとなってしまった便箋には、彼女の目の色とおなじすみれ色のインキで確かにそう記されていたのである。彼女は手紙を二回、三回と読んだ。当惑が怒りへ変わり、彼女の頬は炎のように紅くなった。が、彼はすべての証拠を目にするまでは結論を下さないでくれと頼んでいる。確かにそれは筋が通った要求だったし、公正を保つためにも彼女はそれを認めてやらなければならなかった。

第八章

 このようにしてテキサスの娘にとってだけでなく、ロンドンじゅうの人々にとっても落ち着かない一日がはじまった。彼女の父親は、顧問の靴磨きから先ほどさずけられた、新たな外交上の秘密の話ではちきれそうになっていた。後に彼はワシントンで、海外の事情通として注目を浴びる運命にあった。靴磨きが背後で彼を支えていたとは、誰も予想しなかったが、テキサスから来た男は、あの有能な外交官のことを幾度も思いだし、今もご意見番として足元にいてくれたらと思うことになるのである。

 「真夜中までに戦争になるだろう、間違いない!」彼はこの運命の火曜日の朝、そう宣言した。「いいか、マリアン、サロニア号の切符が手に入って、わしらは幸運だ。今日となっては五千ドルでも切符は売れん。あさって定期船に乗りこめば、わしは万々歳だ」

 あさって! 娘は考えた。とにかく手紙は届くだろう。彼女の若い友人が自分の卑劣な行いを説明するために書いた弁護とやらを含む手紙が。彼女は最後の手紙を首を長くして待った。

 その日はのろのろと過ぎ、次の日に変わろうとする深夜になってイギリス参戦の報がもたらされた。カールトン・ホテルの靴磨きは、あるテキサス人の心の中で、尊敬されるべき預言者となった。次の日の朝、手紙が到着し、震える指がその封をちぎった。手紙には次のようにあった。

 親愛なる女性裁判官さま

 これは、あなたが私から受け取ったどの手紙よりも、はるかに書くのが難しい手紙です。私は二十四時間、悩みつづけました。昨晩、私はエンバンクメントの通りを散歩しました。辻馬車がゆっくり走り、市街電車の明かりが、カンサスの我が家の裏庭を飛び交った蛍のように、ウェストミンスター橋の上を踊っていました。私は歩きながら悩みました。今日も部屋に閉じこもって悩みました。今、こうして手紙にとりかかろうとしているときも、私はまだ考えがまとまりません。どこからはじめればよいのか、なにを言えばいいのか、まったく分からないまま私は書き出しました。

 この前の手紙の最後で、私はあなたにフレイザー=フリーア大尉を殺したのは私だと打ち明けました。それは真実です。どんなに婉曲に表現しようと、突き詰めればおなじことです。なんと苦い真実でしょう!

 まだあれから一週間も経っていない先週の木曜日の夜七時、私は暗い階段を上り、あの無防備な紳士の心臓にナイフを突き刺しました。もしも彼がなんらかの形で私を怒らせたと言えるなら、もしも彼の死がブレイ警部にとってとおなじように私にとっても必要であったと証明できるなら、いつかあなたの許しが得られる希望があるかもしれません。しかし、なんということでしょうか、あの紳士は私にとてもよくしてくれたのです。私の手紙からはご想像もいただけないくらいに親切だったのです。彼を亡き者にする必要など、実際はなかったのです。私はどこに自己弁護を求めることができるでしょうか。

 今、私に思いつくただ一つの弁護はこれだけ……大尉は、私が彼を殺したことを知っている! ということです。

 これを書いている今も、最初の手紙を書きながらここに座っていたときとおなじように、大尉の足音が頭上から聞こえます。彼は夕食に出かけるために、身なりをととのえているのです。私たちは一緒にロマノズのレストランで食事をすることになっています。

 さあ、お嬢さん、あなたを悩ました……と私が期待する……謎の答えがついにお分かりでしょう。私は二番目の手紙で親友の大尉を殺しました。その後の奇妙な展開はそっくり、書斎の緑色の笠が付いたランプのそばで、小説の広告にあるように、あなたの注意を最後までつかんで離さない手紙を七通もどうやって書いたらよいのだろうと考えをめぐらす私の想像力の中の出来事だったのです。ああ、私は罪を犯しました……それは否定できません。聖書のアダムの真似をして、美しい女性に誘惑された、などとほのめかすことはしたくないのですが、真実を厳密に尊重する立場からは、あなたにも罪があるのだといわざるを得ません。どうしてでしょう? あなたがデーリー・メールに載せたメッセージを思い返してください。「グレープフルーツの女性は……謎とロマンスが大好き……」

 もちろんあなたは知らなかったでしょうが、この言葉であなたは、私に対して、応じずにはいられないような挑戦状をつきつけたのです。というのは物語を作るのは、私の生涯をかけた仕事、いや人生の活力だからです。私はたくさんの物語を作ってきました。ことによるとあなたも、そのいくつかをブロードウエーでご覧になったかもしれません、。また、ロンドンで私の劇が公開予定と言う知らせを見たことがあるかもしれません。パレスシアターの演目表には私の劇のことが書かれていました。私がイギリスにいるのも、その仕事のためです。企画がオクラになったため、今はいつでも帰国できるのですが。

 このようにあなたが七通の手紙という特典を与えたのは私の思うつぼでした。つまり、と私は考えました、この女性は謎とロマンスを求めている。それなら、ようし、それをさしあげようじゃないか!

 そして上から聞こえてきたフレイザー=フリーア大尉の重い編上靴の音がヒントになったのです。立派な、固い信念を持った、誠意あふれる人物ですよ、大尉は。彼の従兄弟、アーチボルド・エンライトの紹介状を差し出してからというもの、とても親切にしてくれるのです。かわいそうなアーチー! おとなしくて品行方正なのに、私が彼をスパイで、ライムハウスの常連に仕立てあげたことを知ったら、ショックのあまり言葉も出なくなるでしょう!

 話の出だしをどうもっていくかは、まだぼんやりとしていましたが、私は最初の手紙を書き出し、アーチーの紹介状が普通とはちょっと違うことをほのめかしておきました。二番目の手紙を書くとき、フレイザー=フリーアの死がどうしても必要であると思いました。彼の机の上にあったインド製のナイフを思いだし、その瞬間に彼の運命は決まったのです。そのときは、謎の解決方法をまったく考えていませんでした。しかしデーリー・メールのあの四つの奇怪なメッセージをいぶかりながら読み、これはぜひとも話の中に取り入れなければならないと思ったのです。

 四番目の手紙はなかなか思うように書けないでいたのですが、それもその晩、夕食からの帰りに、静かなアパートの前に止まっていたタクシーを見るまでのことでした。あれからライラックの香水をつけた女の訪問を思いついたのです。ドイツの外務省もあそこまで愚かしく自分を目立たせる女スパイには用はないと思うんですけどね。五番目の手紙を書くときが来ました。私は自分が逮捕されるときが来たように感じました。あなたが、かわいそうだと思ってくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いて。ああ、嫌な奴ですね、私は。自分でもわかっています!

 このゲームをはじめた頃、私は大尉にむかって、あなたを残酷にも殺してしまったと話しました。彼はとても面白がっていましたが、最後の手紙を書くまでに必ず汚名を晴らしてくれと言いました。私もそれに同感しました。彼は掛け値なしにいい人ですから。さらに、彼がふと語ったことから、謎の解決を思いつきました。彼が確かな筋から聞いたところによれば、潜入スパイを捕まえるロシア皇帝の機関の長官自身がスパイだったそうです。それなら……スコットランドヤードにスパイがいてもいいではありませんか。

 この手紙を書きながら、私はとても後悔しています。覚えていらっしゃるでしょうが、この話を書きはじめたときは、戦争が起こるなどとは思ってもいませんでした。しかし今は全ヨーロッパが炎に包まれています。激しい戦闘と、怖ろしい苦しみがやがて訪れることを思うと、私と私のささやかな物語はなんだか不謹慎な……いや、私の言いたいことは、あなたにはお分かりでしょう。

 許してください。どう言えばいいのかまったく分からないのですが、あなたの興味を手紙にひきつけ、私があなたの関心に値する面白い人間であると感じさせることがとても重要であるように思えたのです。あなたがカールトン・ホテルの朝食室にあらわれたあの朝は、私の人生でほんとうに最高の日でした。あなたがドアを通って入ってきたとき、まるで私の胸に……。いや、私にそれを言う権利はありません。なにも言う権利はないのです。ただ、すべてをあなたにゆだねます、と言うこと以外は。もしも私があなたの気持ちを傷つけたなら、二度と連絡をいただこうとは思いません。

 大尉がすぐここに来ます。もうすぐ約束の時間で、彼は決して遅れませんから。彼はインドに戻る予定はなく、大陸への派遣軍に選抜されるだろうと思っています。ドイツ軍が彼に対して私よりも親切であればよいのですが!

 私の名前はジェフリー・ウエスト。アデルフィ・テラスの十九番地に住んでいます。部屋からはロンドンでいちばんみごとな庭が見下ろせます。少なくともそれは嘘じゃありません。今晩はとても静かで、都会だけでなく、戦争と恐怖に対する絶え間ないざわめきも、百万マイルのかなたにあるかのようです。

 お目にかかることができますか。お答えはまったくあなたしだいです。しかし、私は一日千秋の思いで返事を待っています。もしも説明の機会を、つまり直接あなたにむかって自分を非難する機会を与えてくれるなら、そのとき幸運な男はこの庭と、薄暗い埃っぽい部屋に別れを告げ、地の果て、そう、テキサスまでもあなたについて行くでしょう!

 フレイザー=フリーア大佐が降りてきます。お嬢さん、これが永遠のお別れになるのですか。心からそうでないことを望みます。

悔い改めたイチゴ男

第九章

 女中のセイディ・ヘイト気付で送られてきた最後の七通目の手紙を読みながら、カールトン・ホテルの娘が味わった気持ちは、とても言葉では言い表せない。が、ぱらぱらと辞書をめくれば、幾つか使えそうな言葉が見つからないわけでもないだろう。例えば「驚愕」、「怒り」、「不信」、「感嘆」などだ。Aの項目まで戻れば、感興(amusement)という言葉も悪くない。謎の解決は手にしたが、サロニア号の出航まではあと一日とすこし。心中にいろいろな感情が奇怪に入り乱れている彼女を、我々はそっとしておこうと思う。

 彼女を離れて、アデルフィ・テラスの心配でたまらない若い男のほうに戻ろう。

 手紙が配達されたことを知るや、ジェフリー・ウエストははなはだ謙虚に不安という椅子に座った。水曜日の朝はそこで何時間も長いこと身悶えしていたのである。この痛ましい姿の描写が長くならないように、急いで、その日の午後三時に緊張に終止符を打つ電報が届いたと付け加えよう。彼は封を破り読んだ。

 イチゴおとこさん。あなたをけっしてゆるさないわ。あすサロニアごうでたちます。すぐきこくのよていはありますの?  マリアン・A・ラーネッド

 こういうわけで数分後、アメリカ人が騒然と群がる、ある汽船会社の切符売り場に、狂ったような目の若者が加わり、それを見た人々をさらに動揺させたのだった。彼はくたびれ果てた係員に、なんとしてもサロニア号に乗らなければならないのだと火を吐く勢いで言った。この男をしずめる手だてなどありそうになかった。彼一人のために定期船を出すと言っても、見むきもしなかっただろう。

 彼は狂ったようにうわごとを言い、髪の毛をかきむしり、激しく怒鳴った。すべて無駄なことである。分かりやすいアメリカ英語で言えば「どうもならんナッシング・ドゥーイング」と言うわけだ。

 望みはかなわなかったが、決然と彼は、サロニア号の切符を持っている人を、群衆の中に探し出そうとした。最初のうちはなかなか幸運な相手を見つけることができなかったが、ついにトミー・グレイと出会ったのである。古い友達であるグレイはしつこく問いただされたあげく、喉から手が出るほど欲しくてたまらないあの船の乗船券を持っていることを認めた。しかし王様に馬と黄金をみんなやると言われても、彼は少しも心を動かさなかった。願いを聞いてやりたいのは山々だけど、私も妻も決めているんだ、出航するって。

 ジェフリー・ウエストが友達と協定を結んだのはそのときである。彼は友達から汽船の荷札をもらい、自分の荷物をグレイの所持品としてサロニア号に載せることになった。

 「だけどねえ」とグレイは抗議した。「そこまでうまくやりおおせたとしても、つまり切符なしで出航できたとしても、どこで寝るんだい。船倉のどこかに鎖につながれて寝ることになりゃしないか?」

 「大丈夫さ」とウエストは陽気に言った。「食堂でも救命ボートでも風下側の排水口でも、どこでだろうと寝るさ。空中でも寝るよ、目に見える支えがなくたって。どこだってかまうもんか。とにかく船に乗るんだ! それに鎖と言ったって……僕をつなぎとめるほど頑丈にできちゃいないぜ」

 木曜日の午後五時に、サロニア号はリヴァプールの波止場をすべるように離れていった。快適な船旅ができる乗員数の、ほぼ二倍にあたる、二千五百人のアメリカ人がデッキに立って歓声をあげた。その大勢のなかには百万長者もいたが、彼らですら三等船室の予約だった。誰もが大西洋横断のあいだに空腹、不快、苦痛を覚える運命にあった。他の人に踏みつけられ、のっかられ、ぎゅうぎゅう詰めの状態で押し合いへしあいすることになるのだ。船が埠頭を出たとき、彼らはそのくらいのことは予想していた。それにもかかわらず歓声をあげたのである。

 いちばんうれしがっていたのは、混乱のさなかで勝ち誇ったような表情のジェフリー・ウエストだった。無事に乗船し、船は航行中! 切符がないから密航者だが、そんなことは気にもかけなかった。まさに強固な意志の塊となって、幸福の船サロニア号に乗りこんだのである。

 その夜、サロニア号がデッキの明かりをことごとく消し、舷窓をカーテンで覆い、こっそりと航海しているとき、ウエストはほの暗いデッキに大切な女性のすらりとした姿を見た。彼女は黒い海面をみつめながら立っていた。彼は胸をどきどきさせて彼女に近づいた。なにを言えばいいのか分からなかったが、とにかくきっかけを作らなければならないと感じていた。

 「失礼ですが、お話ししてもよろしいでしょうか」と彼ははじめた。「じつは……」

 彼女は驚いて振り返り、奇妙な、かすかな笑みを浮かべた。しかしそれは暗闇の中で彼からは見えなかった。

 「ごめんなさい」と彼女。「あなたとは面識がありませんわね、私の記憶しているかぎり……」

 「分かっています」彼は答えた。「明日、紹介をいただくことになっているのです。トミー・グレイ氏の奥様が以前あなたと船で一緒に……」

 「あの方とは汽船で知り合っただけですわ」娘は冷たく答えた。

 「そうでしょうとも! しかしグレイ夫人はすばらしい人です……彼女がきちんと紹介の労をとってくださると思います。わたしはただ、明日紹介される前に……」

 「お待ちになった方がよくはなくって?」

 「できません! 私は乗船券を持ってないのです。すぐにも下へ降りて、パーサーにそのことを話さなければなりません。海に放り出されるかもしれませんし、監禁されるかもしれません。彼らが私みたいな連中をどう扱うのか知りませんが、ひょっとしたら火夫にさせられるかもしれませんね。そうしたらあなたを二度と見ることもなく、燃料をくべなければなりません。だから今あなたに言いたいのです……私の想像力が強すぎたことをお詫びします。思わず夢中になってしまったんです、ほんとうに! あの手紙であなたをだまそうなんてつもりはありませんでした。しかしいったんはじめると……ご存知でしょう、私が心からあなたを愛していることを。あの朝、カールトン・ホテルに入ってきた瞬間から私は……」

 「あの、困りますわ、ミスター……」

 「ウエストです。ジェフリー・ウエスト。あなたを愛しています! どうしたらそれが証明できますか? 僕は証明しますよ、この船がノース・リヴァーに着く前に。お父さんに話したほうがいいかも知れませんね、私事広告欄のことも七通の手紙のことも……」

 「それはだめ! 父はとても機嫌が悪いの。夕食がまずかったうえに、給仕係ったら、航海が終るころには、あれがご馳走に思えるさ、なんて言うんですもの。それに、かわいそうなお父さんはあてがわれた個室じゃ眠れないって言うし……」

 「そのほうが都合がいい! 今すぐお父さんに会いにいきますよ。今、私の味方をしてくれるなら、いつだって味方してくれるということです! 私が下に行って、事務室の怖い顔をしたパーサーのご機嫌をとる前に、どうか信じてくれませんか、私があなたを深く愛しているということを」

 「私が愛しているのは、謎とロマンスよ! それからあなたの非凡な創作力! あんなに嘘がお上手なんだもの、あなたの言葉をまじめに受け取ることなんてできないわ……」

 「この航海が終るまでにはまじめに受け取らざるを得なくなるでしょう。あなたへの愛を証明してみせます。もしもパーサーが私を見逃してくれたら……」

 「証明なさることがたくさんおありですわね」女は微笑んだ。「明日、トミー・グレイ氏の奥様からご紹介をいただいたら……お付き合いすることになるかもしれない……作り話の上手な方として。才能があることはたまたま知っていますもの。でも、それ以上のお付き合いなんて……ばかばかしい! さっさとパーサーと決着をつけていらっしゃいな」

 しぶしぶ彼はその場を離れた。五分後、彼は戻ってきた。娘はまだ手すりのそばに立っていた。

 「大丈夫です!」ウエストが言った。「こんなことをするのは自分だけだと思ってたんですが、おなじように困ってる連中が十一人もいるんだそうです。その一人はウオール街の億万長者だそうですよ。パーサーは我々からすこしお金を取って、デッキで寝るように言いました、空きがあればですけど」

 「残念ですわ」と娘が言った。「私はむしろあなたが火夫になったところを想像していたんですの」彼女は暗いデッキの上を見まわした。「どきどきなさらない? わたし、この航海はきっと謎とロマンスに満ちていると思うの」

 「ロマンスに満ちていることは分かります」ウエストが答えた。「謎のほうは……説明させてください、納得がいくように……」

 「黙って!」娘がさえぎった。「父が来るわ。お会いするのを楽しみにしています……あしたですわね。かわいそうなお父さん、寝る場所を探しているんだわ」

 哀れな父親は、船が冷たい小ぬか雨を受けて毎晩海上を進むあいだ、服を着たままデッキで寝、食べ物の貯蔵が激減した食堂でひもじい思いをしていた。五日後のその姿は政敵も心を動かされる哀れなものであった。健康なテキサス人の食欲をすこしも満足させない夕食のすぐ後、彼は陰気に、今や彼の特別室と化したデッキチェアにぐったりもたれかかった。ジェフリー・ウエストがさっそうとやって来て、そのそばに座った。

 「ラーネッドさん」彼は言った。「差し上げたいものがあります」

 彼は優しい微笑とともにポケットから大きなあたたかい焼きいもを取り出した。テキサスの男は大喜びして贈り物を受け取った。

 「どこで手に入れたのかね」彼は宝物を二つに割りながら尋ねた。

 「秘密です」ウエストは答えた。「でも私は好きなだけ手に入れられるんです。ラーネッドさん、もうお腹を空かせることはありませんからね。それから他にもお話ししたいことがあるんです。私は、あなたのお嬢さんと結婚しようと思っているんです」

 夢中になってジャガイモを食べながら下院議員は言った。

 「娘はなんと言ってる」

 「そんな見こみはないと言うんですよ。でも……」

 「じゃ、気をつけろ、君。あいつは君との結婚を決意してるぞ」

 「あなたにそう言っていただけてうれしいです。私、自己紹介すべきですね。それからお嬢さんと会う前に、私が彼女に手紙を七通書いたということも知っておいていただきたくて……」

 「ちょっと待て」テキサスの男が口をはさんだ。「その話に入る前に、このジャガイモをどこで手に入れたか、教えてくれんか」

 ウエストはうなずいた。

 「もちろんですとも」と彼は言い、身体を乗り出してささやいた。

 年配の男の顔にこの数日間ではじめての笑顔が浮かんだ。

 「君」と彼は言った。「君が好きになりそうだ。他のことは気にせんでいい。君のことは君の友達のグレイからなにもかも聞いておる。それにあの手紙だな……あれがなければこの旅の前半を耐えることができなかっただろう。マリアンが乗船した夜に読めと言ってよこしたんだよ」

 突然、雲のかげから長いこと姿が見えなかった月があらわれ、超満員の定期船を銀色の光で包んだ。父親のことはジャガイモに任せ、ウエストは娘を探しに出た。

 彼女は船首甲板の手すりのそばで月の光を浴びて立っていた。その目はうっとりと前方を、彼女を冒険と見聞の旅に送り出した偉大な国のほうを、見ていた。ウエストが近づくと彼女はくるりと振り返った。

 「ちょうどお父さんと話をしてきたんです」彼は言った。「あなたは、結局は、私を受け入れるつもりだろうとおっしゃいましたよ」

 彼女は笑った。

 「私たちが船で会うのは、明日の晩が最後ね。そのとき私の最終的な決定をお聞かせするわ」

 「でも二十四時間も先のことですよ! そんなに待たなければいけませんか」

 「少しくらいはらはらするのも悪くはないでしょう。あなたの手紙を待っていた、あの長い日々が忘れられないわ……」

 「分かってますよ。でもちょっとだけ……ここで……今晩……ヒントをくれませんか」

 「私は冷たい女なの、全然優しくないんだから!」

 その時だった。ウエストの指が彼女の手を包みこむと、彼女はそっと言い添えた。「ヒントになりそうなことはなにも教えない……私の答えが……イエスだってこと以外は」

翻訳後記

この翻訳は Internet Archive 所収の The Agony Column (1916年 The Bobbs-Merrill Company) を底本にしました。